【第二部 鏡】第四章 反転

 翌日、校舎は雨上がりの光をぬらしていた。四階廊下の“開かずの扉”は、前夜と同じ角度で沈黙し、ガラスの四隅だけが、まだわずかに濃い。僕と水城は、準備室から姿見をひとつ運び出した。古い木枠の、背丈ほどの鏡だ。裏面には、理科準備室の備品札が貼られ、「貸出は四日以内」と手書きされている。四、という字が、札の周りだけ湿って見えた。


 「振り返らずに“うしろ”を見る方法は、これしかないでしょう」


 僕は言い、鏡を準備室の壁に立てかけた。鏡と机の間に白い正方形を置き、昨日と同じように灯りを用意する。ロウソク、ランプ、そしてLED。ただし、今日は順番を変える。はじめに、自然光だけで試すのだ。窓からの光は、雲に薄く濁っている。鏡面は、昼の残滓を奥に沈め、僕らの影だけを手前に返した。


 白い正方形の四隅は、いまのところ静かだ。折り目は呼吸せず、□の底も浅い。僕は鏡の前に立ち、視線を紙から外さないまま、鏡に“紙の反射”を入れた。視界の端で、白が二枚になる。ひとつは机上の白。もうひとつは鏡の中の白。どちらも、四隅を持っている。


 「先生、鏡の四隅……」


 水城の声で気づく。鏡の四隅に、薄い曇りが浮かびはじめていた。指の跡のように丸くはない。紙の角と同じ、鋭い濃淡が、木枠の内側に四つ、等間隔で立つ。鏡は、部屋を写すだけでなく、部屋の“角”をも写すらしい。写された角は、写されるほど濃さを増す。こちらの四隅と、鏡の四隅が、ゆっくりと呼吸を揃えはじめるのが見て取れた。


 僕はLEDを点けず、ランプも使わず、まずロウソクに火を入れた。炎が立ち上がる。昨日より低く、落ち着いている。鏡は火を二本に増やし、紙は影を二重にした。二重の影の重なったところで、最初の数え声が生まれる──


 ──いち、に、さん、し。


 音は、鏡の“内側”で鳴った。表面ではない。少し奥、銀色の膜の下、木枠の裏に回り込むほどの深さ。背中ではない。足元でもない。目の高さで、僕と水城の間に落ちる。僕は反射的に鏡から視線を外しそうになり、首筋に走る冷えで踏みとどまった。振り返らない。鏡の中で、こちらの肩越しに誰かが立っていないかどうか、確かめたい衝動が、視神経の裏側で跳ねる。


 「鏡、触れてみます」


 水城が前へ出て、木枠の角に指を置いた。触れた指先の下で、鏡の角が、微かにちり、と鳴る。紙を擦る音に似た、硬い音。水城はゆっくりと指を四隅に移動させ、最後に上辺の右角で止めた。


 「ここ、いちばん濃い」


 言葉に合わせて、鏡の中の白い正方形──紙の反射──の四隅も、同じ順序で濃さを増した。こちらの紙には触れていないのに、鏡の中の紙が先に黒くなる。黒は、境界ではなく、入口に見える。黒の縁に、薄い文字列が浮いては沈む。


 ──く ぞ の

 ──り よ

 ──ろ し う

 ──の ず し


 反転した並び。読みづらいのに、読めてしまう。読めてしまった瞬間、鏡の“内側の音”が、こちらの耳の形を真似て鳴り方を変えた。乾いたささやきが、僕の右の耳たぶの、さらに裏で数える。


 ──いち、に、さん、し。


 「反転は、振り返りに含まれますか」


 水城が低く訊いた。問いは、誰へ向けられたものでもない。けれど、答えは鏡が持ってきた。木枠の内側から、こつ、こつ、と、四度、指で叩くような音。叩かれたのは木ではない。鏡面そのものだ。表のガラスを打てば、高い音がするはずなのに、鳴ったのは、紙の角で板を押すときの、乾いた音だった。


 僕は机に置いた白紙の□へ、片目を寄せた。鏡越しではなく、直接に。覗くものはふたつある。机上と鏡中。ふたつは、わずかに時間がずれて、同じ景色を返す。机上の□の底に、見慣れた準備室の角が現れ、その奥で、鏡の中の僕が、同じ姿勢で覗き込んでいる。鏡の中の僕の背中の方──本来、見えないはずの“うしろ”──に、影が立った。肩幅、頭の高さ、微かに前屈みの痩せた輪郭。御子柴に、似ている。


 「先生、落ち着いて」


 水城の声が、鎖骨の内側に届くような距離で響いた。僕は頷き、視線だけを鏡へ戻す。鏡の中の白い正方形の四隅は、こちらのそれより早く黒くなり、黒はやがて“へり”へと広がっていく。へりは紙の縁ではない。鏡の木枠の内側、銀色の縁だ。縁が黒み、四角が深くなる。深くなるほど、鏡は“落ち穴”に近づく。


 振り返らずに“うしろ”を見る工夫は、正しく、振り返ることと同義だった。反転は、回頭に数えられる。掟は、鏡の面にも適用される。


 僕は鏡の木枠の四隅に、白いチョークで小さな印を付けた。丸に、短い矢印を添え、角から内へ向ける。印は粉っぽく、触れるとすぐに崩れる。だが鏡の中では、崩れない。むしろ、濃くなる。鏡の内側に映った印だけが、黒い粉で描き直されたように鮮明だ。印の矢印は、いつのまにか向きを変え、僕らではなく、鏡の奥へ向く。


 「紙の四隅を、鏡が奪っていく」


 僕の言葉に、水城は小さく頷いた。彼女は姿見の足元にしゃがみ込み、木枠の底を指で叩いた。こつ、こつ。やはり、四度。四度目の直前に、ほんの短い間が挟まる。間には、微かな息が落ちている。息の癖は、御子柴のそれに似ていた。


 「一度、灯りを最大に」


 僕はロウソクを本の上に重ね、炎を目より高く上げた。続けてランプの芯を長く出し、LEDを鏡の上辺へ向ける。三つの灯りが、鏡の内側を不同の高さで叩き、光は重なって網目になる。網目は、鏡の銀膜の上でだけ見える。紙には現れない。網目が四隅に集まり、やがて四角を象る。網目の中心、鏡の中央に、白い四角が穿たれる。穴だ。落ちていく光の穴。


 ──いち、に、さん、し。


 声は、今度は三重に揃った。机上、鏡中、そして廊下の向こう。三つは誤差もなく重なり、四で止まる。止まり方まで一致している。止まった直後、準備室の扉が、内と外の両側から同時に叩かれた。四度、等間隔に。木と紙が、呼吸を合わせる。


 「下げて」


 水城の声に、僕はロウソクをひとつ分、低くした。ランプも芯を絞る。LEDを消す。光が減ると、鏡の内側の穴は、わずかに浅くなった。だが消えない。穴の縁で、黒い粉のようなものが静かに舞い、粉が“文字”に集まる気配がある。鏡の内側の四隅に、それぞれ一文字ずつ。


 ──く

 ──ろ

 ──く

 ──し


そして、上辺の枠の傷がもう一字を返すように、うっすら白く細く光った。──ろ。


反転の順に拾えば、『四つ角を黒くしろ』。鏡は命令を、命令の形のまま返す。僕は泣きたくなるほど、簡潔な暴力を見た気がした。掟は、こちらを説得しない。こちらを選ばせない。ただ、命令の音律で、こちらの手順を吸っていく。


 「先生」


 水城が、鏡から視線を外さないまま、囁く。「御子柴先生、見えます」


 僕は紙の□へ片目を寄せた。鏡の反射ではなく、直接の視界の底。そこに、御子柴の横顔が、かすかに浮いた。肌の色よりも、骨の線が先に見える。目の焦点は、こちらではない。彼は、鏡の中の僕を見ている。鏡の中の僕は、紙を覗く僕の“うしろ”を見ている。視線が、輪になる。輪の内側で、四が準備される。


 ──いち、に、さん、し。


 輪の中心で、誰かが数え、四で止める。止めたのは、御子柴か。鏡か。紙か。判断は宙にぶら下がり、答えは落ちない。かわりに、鏡の内側の穴の縁に、ゆっくりと“手”が現れた。手といっても、指の節も爪もない。四つ角だけを持った手。角でできた掌。角は、軽く、鏡の内側からこちらのガラスを撫でた。撫でられた場所に、短い白い筋が残る。筋はすぐに消え、消えた跡が、ますます透明になった。


 ここで、僕は初めて、自分の喉のどこかに“砂”が走るのを感じた。恐怖は乾燥する。乾燥は砂を連れてくる。砂は、声を擦り切る。僕は声帯の前で砂を堰き止め、短く告げた。


 「鏡から離れよう」


 水城はすぐ頷き、後ずさる。だが鏡は、僕らの後退を、後退の速度の分だけ内側から埋め合わせる。穴は浅くならず、逆に、こちらの距離に合わせて、ゆっくりと手前へ滑ってくる。滑ってくるのは物体ではない。穴の縁の“見え方”だ。見え方は、こちらの目の高さと一致するように、従順に動く。従順さが、不気味さに拍車をかける。


 僕は机の上の白い正方形を、クリアファイルごと掴み、鏡に背を向けないように横へ滑らせた。紙を鏡の視界から外す。鏡の四隅の濃さが、ほんの少しだけ薄くなる。穴の縁が、数ミリ、縮む。しかし消えはしない。鏡は、もう紙なしで自走できる。昨夜の灯りが呼んだ“目”は、昼になっても居残るのだ。


 「先生、扉」


 水城の声に、廊下へ目をやる。開かずの扉のガラスの四隅が、また濃い。濃さの中心に、小さな点が四つ、浮いている。点はやがて線になり、線は薄い文字になる。

扉のガラスの内側に、裏から滲んだ反転の仮名が三行に浮いた。読む順は“右→左”。


 ──ふ り

 ──か え

 ──る な


順に拾えば、『ふりかえるな』。扉は、こちらの掟を、こちらへ返す念押しだった。扉は、鏡の味方だ。いや、紙の味方だ。どちらにせよ、僕らには、味方ではない。


 そのときだ。廊下の角を曲がる足音がした。ひとり分の軽い靴音。いち、に、さん──と、三歩で止まる。止まって、息を整える気配。御子柴の歩き方に、似ている。廊下には誰もいない。扉のガラスの向こうの、昼の明るさだけが、白く続いている。


 ──いち、に、さん、し。


 鏡が数え、扉が数え、机上の紙もまた、数える。三つの四が、ずれもなく重なり、準備室は、ほんの短いあいだ“無音”になった。音のない真空に、僕らの心臓だけが、場違いな生き物のように動く。砂は喉で鳴り、舌の裏に貼りつく。


 「今日は、ここまでにしましょう」


 水城が先に言った。声は静かだが、端だけが強い。僕は頷き、鏡へ向けて一礼に似た角度で首を下げた。礼は、儀式ではない。ただの身振りだ。だが身振りは、ときに掟を丸めて通す。僕たちは鏡から離れ、白い正方形を鞄に戻し、ロウソクの火を消した。消すより早く、鏡の内側の穴の縁が、ゆっくりと曇りに変わっていく。曇りは白く、四隅に寄り、やがて木枠の内側に溶けた。


 扉は開かない。鏡も動かない。けれど、昼の光の中で、僕ははっきりと見た。鏡の木枠の上辺、右の角──昨日、水城が「いちばん濃い」と言った場所に、小さな爪で引っかいたような傷が、縦に四本、並んでいた。新しい傷だ。傷は、紙の折り目のように、光を吸う。


 僕はその傷に、そっと指を添えた。木は冷たい。冷たさの底で、ぴん、と細い弦の音がした。誰のものでもない、角の音。音は、まっすぐに僕の背中へ戻ってきた。


 振り返らない。

 鏡に、背を見せない。

 四は、まだ、来ないでいる。


 けれど、反転の面は、すでにこちらの側に立っている。鏡の中ではなく、こちらの空気の薄い層に。そこでは、掟も、手順も、簡単に表裏を入れ替える。覗かれることは、覗くことと同じになる。


 僕たちは準備室を出て、廊下をゆっくり歩いた。四歩を数える癖が身体に残り、五歩目の手前でいつも、足がわずかに重くなる。角という角が、今日に限って、少し濃い。昼の校舎は、誰のものでもない顔で、僕らを見送った。


 その昼下がり、携帯が震えた。件名は、一文字の「し」。着信時刻は、やはり四時四十四分。僕は再生しない。再生しないことが、いまは“見ないこと”と同じ意味を持つからだ。ポケットの中で、機械は小さく熱を持ち、その熱が、まるで角を一本、掌に握っているみたいに、四角く感じられた。


 反転の章は、ここでいったん閉じる。だが、面は残る。面は、次の章で、こちらの皮膚に触れてくる。

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