【第一部 紙】第三章 灯り
準備室の空気は、火を点ける前から湿っていた。紙の匂いと、古い木の匂いと、誰かが置き忘れた線香の灰の匂いが、薄い膜になって漂う。僕は机の上に三つの灯りを用意した。ロウソク、古いオイルランプ、そして小さなLEDライト。炎の高さと影の角度を変えるためだ。
水城は窓際に立ち、四階廊下の“開かずの扉”を見ていた。ガラスは曇り、むこうの光は薄い。扉の四隅だけ、曇りの濃さが違って見える。角に、目が宿るみたいに。
「高さを、少しずつ変えてみます」
僕が言うと、水城は頷いた。机上の白い正方形は、すでにほんのわずかに膨らんでいる。折り目の谷で呼吸する紙は、灯りを待っている気配を纏う。僕はまず、LEDライトのスイッチを入れ、低い位置──机の縁より下──から斜めに照らした。白は白のまま、影だけが鋭くのびる。四つ角は黒くならない。ただ、□の縁が、光の角度に沿って片側だけ厚く見える。
「音は来ないですね」
水城が言う。背中は静かだ。僕はLEDを消し、オイルランプに火を入れた。火屋のガラスが曇っていて、炎が揺らめきの奥で薄く歪む。高さはロウソクより低く、炎の腹が重たい。机の上に落ちる影は、柔らかく、角を丸める。
──いち、に、さん、し。
最初の数え声が来たのは、炎が安定してからすぐだった。背中には来ない。机の下から、床板の隙間を通って、足首へまとわりつくように来る。言葉というより、熱のある息だ。四つ角のうち、床に近い二つが、先に黒くなる。視線を落とすと、黒の縁に細い文字が浮き、また消えた。
──の ぞ く
読まれたというより、読ませられた。紙の側から、こちらの読み筋を決められる感覚がある。僕はランプをわずかに持ち上げ、炎の位置を高くした。影が短くなり、黒くなった二つの角に、遅れて残りの二つが追いつく。四隅の濃さが揃った瞬間、室内の空気が低く鳴った。かすかな音だが、耳よりも皮膚が先にそれを受け取る。
水城が窓の外を見る。「扉の四隅……」
僕も見た。ガラスの外側に、指先で押されたような丸い跡が四つ、等間隔で並ぶ。白い曇りの上に、円い跡は透明で、むこうの暗さを切り抜いて見せる。その四つの透明が、ゆっくりと螺旋を描くように内側へ寄っていき、最後には、正方形の中央で重なる。窓のガラスに、見えない□が浮かぶ。
ロウソクに火を点けると、炎は軽く跳ね、オイルランプの鈍い灯りの上に別の影を置いた。影が影の上に重なり、机の上は、箱の中の箱のように四角が増える。灯りが複数になると、紙は饒舌になる。四つ角の黒みが、呼吸するみたいに明滅し、折り目の谷が浅くなったり深くなったりする。零の行は沈み、三の行は浮く。五の行は、浮き沈みのたびに、行末の「ならない」だけが濃くなる。
「高さを、もっと」
僕はロウソクを本の上に載せて、炎の位置を水城の目の高さまで上げた。影が短くなり、□の縁が、むしろ“内側へ”長く延びる。紙の内側の影が、白の中に四角を刻む。視線が吸い込まれる感じが強くなる。片目を寄せるまでもなく、□の底に景色が現れかける。
──いち、に、さん、し。
今度の声は、僕と水城の間で鳴った。空気の厚さが急に増し、言葉の重さが胸骨の裏に掛かる。四まで数えて止まる。止まったところに、間が置かれる。間の底に、誰かの短いため息が落ちる。そのため息に、僕は聞き覚えがあった。御子柴の、それに似ている。
「先生」
水城が囁く。「灯りの高さで、 “どこから覗かれるか”が変わります」
たしかに、低い灯りでは足元から、高い灯りでは顔の高さで、数え声が生まれる。灯りは、窓の向こうの“視線の位置”を引っ張る。影の角度は、覗く/覗かれるの角度に一致する。試しに、ロウソクの台に重ねた本をもう一冊増やし、炎をほんの少しだけ高くした。僕の額より指二本ぶん。水城の目と同じ高さ。
その瞬間、紙の□の底で、黒い四角がぱっと開いた。窓ではなく、穴。穴の縁は、炎の天辺に相槌を打つみたいに、わずかに波打つ。そこから覗き込む“視線”の高さが、こちらとぴたりと揃う。視線が交差する刹那、背筋に氷を立てられたような感覚が走った。僕は反射的に身を引き、炎が小さく嘲るように揺れた。
「高さを下げて」
水城の声はかすれ、同時に真っ直ぐだった。彼女の手が、ロウソクの台から本を一冊そっと外す。炎は一気に低くなり、影は長くなり、覗き込む視線の位置が、再び足元へ落ちる。足首が冷える。紙の四隅がまた、順に黒くなっていく。黒の縁に新しい文字列が浮き、消え、残る。
──う し ろ
読んだ自覚の生まれる前に、背中の皮膚の浅いところが、すり、と撫でられた。撫でたものは、指でも手でもない。細い紙の端。角。振り返らない。僕は片手でロウソクの根元の溶けかけた蝋を押さえ、炎の高さを少しずつ調整しながら、もう片方の手でスマートフォンの録音アプリを起動した。音が見えにくい高さで鳴っているなら、録っておくしかない。後で、視るように聴くために。
「先生、扉が」
水城の声で、窓の外を見る。 “開かずの扉”のガラスに、さっきの四つの円い透明がまた現れ、今度は最初から、中央へ四角に寄っていく。ガラスの向こうの光が四角く抜け、暗さが額縁のように残る。その四角の中に、顔がある。輪郭は薄く、目鼻は紙の凹凸でできているように見えた。顔は正面を向いているが、視線は、こちらの肩越し──僕の“うしろ”にあるものを見ている。
──いち、に、さん、し。
声が重なった。机の上、床の下、窓の向こう。三つの高さで、同じ数え声がずれることなく揃う。四で止まる。そのぴたりとした停止ののち、準備室の扉が、内側から四度、軽く叩かれた。叩くものは、手の形をしていない。紙の角で、木の板をそっとつつくみたいな音だ。
水城が僕の袖を引いた。振り返らず、首だけ少し傾ける。視界の隅に、扉の影が見える。影の四隅が、不自然に濃い。濃い部分は、わずかに脈打っている。息をしているのは、影の方だ。こちらではない。
「高さを、消してみます」
僕は言い、ランプの芯を絞った。炎が細り、やがて消えた。LEDも、スイッチを切る。最後に、ロウソクの火を指で摘む。音はない。暗さは、一瞬で室内の輪郭を奪い、白い正方形だけを残した。いや、正確には、白ではない。闇の中で、紙は、墨よりも暗く、窓よりも浅い“灰”になって浮いている。□の縁は、灯りがなくても自発光するように、淡く光った。
灯りが消えても、数え声は止まらなかった。むしろ、はっきりする。僕と水城の間、空気の厚みのちょうど中心で、乾いた声が、また四まで数える。数が止むと、紙の四隅の黒が、息を合わせるように、すこしだけ濃くなった。
「灯りは、呼び鈴なんだ」
独り言みたいに、僕は呟いた。「灯りの高さが、相手の“目の高さ”を呼ぶ。呼ばれた目は、灯りが消えても、しばらくはそこに居続ける」
ほんとうに、そこに“目”がいるのかどうかを確かめる気はなかった。確かめるには、振り返らなくてはいけないからだ。代わりに、僕は机の端のマッチ箱を取り、一本取り出した。先に蝋を少し垂らし、煤けた火薬を薄く塗る。ロウソクの頭に触れさせ、火を点ける。炎は先ほどよりも低く、せわしなく揺れた。影は長く、床に四角を広げる。四角は、二重三重に重なり、ついには、僕と水城の足元に、紙と同じ“窓”のかたちを作った。
そこから、じわり、と冷気が昇る。冷気の上を、誰かの息が滑る。無言の訴え。僕はロウソクを持ち上げ、炎を目の高さに戻す。足元の窓は薄くなり、机の上の□が、逆に深く沈む。視線はまた、こちらの目を探ってくる。目を合わせれば、こちらも覗かれる。合わせなくても、覗かれる。
スマートフォンの録音アプリの波形が、暗がりの中で滑らかな丘を描く。数え声の波は四つでひとまとまりになり、そのたびに、細かなノイズが尾を引く。そのノイズを目で追いながら、僕はふと、気づいた。四つの丘の、最後の尾にだけ、いつも同じ、微かな乱れがある。人が息を鼻から吐くときに生じるさざ波。御子柴の、ため息と同じ癖。
「先生」
水城が、低く呼ぶ。「 “数える役”、今、扉の向こうにいます」
僕は頷いた。扉の影の四隅は、さっきより濃い。濃さは、今にも縁から滴り落ちそうなほどに育っている。溜まった黒は、重力ではなく、手順に従って、角から落ちる。角の滴は、床に落ちる前に、空中で形を変え、四つの点に分かれる。点は、僕と水城の間に並び、暗闇の中で、淡く、かすかに光った。
──し ず の
光の点が、仮名を並べる。間を空け、置く。紙の外で、紙と同じことをする。灯りは、紙の中だけでなく、部屋そのものを紙に変える。壁も、床も、扉も、四つ角を持ちはじめる。四は、まだ来ていない。けれど、四は、もうここにいる。
窓の外の“開かずの扉”が、音を立てずにわずかに開いた。隙間は、紙一枚ぶんもない。だが、隙間から吹き込む風は、ロウソクの炎を水平に倒すに十分だった。倒れた炎の先端が、机の上の白い正方形の“角”をなぞる。なぞられた角は、色を増し、匂いを変える。紙の匂いに混じって、焦げた蝋の甘い匂いがした。
「灯りの高さで、 “役”は決まる」
水城が呟く。それは考えというより、観察の結論だった。低い灯りは、足元から数えさせる。高い灯りは、顔の高さで数えさせる。灯りを消せば、数えるものは居残る。ならば、灯りを過剰に高くすればどうなる? 僕はその誘惑を、指の腹で押し戻した。まだ、そこへは行かない。
代わりに、ゆっくりと炎を下げ、紙の四隅へ、等しい光が回る高さを探った。影が均され、黒が均され、角が、同じ重さで呼吸する。数え声は、部屋中の四つ角から同時に立ち、同時に止む。四で止まる。その止まり方が重なって、準備室は一瞬、空洞になった。
空洞には、音が落ちやすい。音だけではない。名前も、手順も、約束も、落ちやすい。
僕は紙から目を離し、深く、遅く、息を吸った。肺に落ちた空気は、紙の匂いと、古い木と、焦げた蝋の匂いを連れている。呼気に混ざって、それらがゆっくりと部屋へ戻る。その循環の端で、スマートフォンが震えた。留守番電話。件名は、やはり一文字──「し」。着信時刻は、四時四十四分。画面の光が、今度は紙ではなく、扉の影に落ちた。影の角が、その光を吸い、吐き、吸い、吐く。
僕は再生しなかった。代わりに、録音を止め、保存した。ファイル名をつける。名は、あとで決める。たぶん「灯り」。あるいは「角」。どちらでも、同じ場所へ行き着く。
外の廊下で、誰かが歩いた。いち、に、さん──そこで、歩数は途切れ、音は紙に吸い込まれた。ロウソクの炎は、やがて自分で疲れ、背を丸め、短くなった。灯りの高さは、最初よりも、低い。影は、長い。四つ角は、静かに濃い。
「今日は、ここまでにしましょう」
僕が言うと、水城は息を吐いた。吐いた息には、紙の匂いが混じっていた。僕たちは灯りをすべて消し、白い正方形をクリアファイルに戻した。扉を開ける前に、四歩、歩いた。廊下へ出ても、振り返らなかった。
背中で、乾いた声が、小さく、確かに聞こえた。いち、に、さん。
そこで、止まった。
四は、また、来ないで、いる。
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