【第一部 紙】第二章 手順
大学を出ると、雨は上がっていた。アスファルトの黒さがまだ湿っていて、足音が薄く吸い込まれる。水城と駅まで並んで歩きながら、僕はさっき見た黒い角のことを反芻した。四つ角だけが濃くなる。あれは指の脂でも煤でもない。紙の方から、こちらを“覚える”ための印だ。
「先生、御子柴先生の“手順の紙”……、最初から五行ありましたか」
「最初に見たときは、四行だった。裏面に細い追記があって、あれで五になった」
「私の手元にある紙は、最初から五行あります。しかも四行目が欠番で、三の次が五でした」
水城が鞄からファイルを取り出す。濡れた夜に照らしたみたいに白が強い。手順はこうだと記されていた。
一、□の四辺の文字を指でなぞる
二、灯りをひとつだけ用意する
三、見たい相手の名を、心の中で呼ぶ
五、四歩あるいて、振り返ってはならない
零、□の中心を片目で覗く
順番がおかしい。だが、一行ごとに薄く折り目がついていて、そこだけ紙が呼吸しているようにふくらんだ。指先を近づけると、紙の内側から冷たい気配が伝わってくる。
「四が、ない」
水城がぽつりと言う。その声のすぐあとで、遠くの踏切が鳴った。いち、に、さん、し──機械じかけの警告音に重なるように、背中の方で、乾いた数え声が小さく合わせてくる。振り返らない。僕は歩を早めた。
次の日、僕は研究棟の古い準備室に籠もった。民俗資料の段ボールが床に積まれ、壁の時計は止まっている。窓の外には、四階廊下の“開かずの扉”が正対して見えた。鍵がかかったまま誰も近づかない扉。長く見つめると、視線の方が先に疲れる。
机の上に白紙を四枚並べる。一枚は僕の封筒から、一枚は水城のファイルから、もう一枚は御子柴の机から拾った小片に合わせて再構成したもの、そして最後の一枚は、真新しいコピー用紙だ。四枚の白は、それぞれ白の質が違った。漂白の強い白、少し黄ばんだ白、光を吸う白、光をはね返す白。
僕は新しい紙に□を書き、四辺に仮名を置いた。上に「し ず の」、右に「う し ろ」、下に「よ り」、左に「の ぞ く」。折り目を四本、正確に入れる。角がかすかに尖る。手順の行を、あえて乱れた順に書く。三の次に五。最後に零。書き終えた時点で、紙はわずかに重くなっていた。物理的な重さというより、視線が貼りつく重量だ。
灯りを落とす。ロウソクを一本。炎が立ち上がる瞬間だけ、部屋の影が吸い込まれる。僕は“零”の行に従い、先に覗く。片目を□に寄せると、紙の繊維の奥で、微細な影が七転八倒しながら形を作ろうとしているのが見えた。焦点が合うたび、四つ角が黒へ寄る。まだ、何も映らない。
今度は“一”。四辺の文字を指でなぞる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ──声に出さない数が、指の腹を通して紙に落ちていく。なぞるたびに、角が濃くなる。角にだけ、妙な温度が生まれる。熱ではない。低い音のような温度だ。
“二”。灯りはある。 “三”。見たい相手の名を呼ぶ。僕は躊躇した。御子柴の名を呼ぶことは、向こう側の窓を叩くことだ。代わりに、御子柴のゼミ生の名を、心に浮かべてみる。水城。呼んだ瞬間、紙の裏から風が返った。短く。返事のように。
“五”。四歩あるき、振り返らない。ここまで来て、僕は気づく。五は命令ではない。手順の行そのものが、こちらに向けた“身振り”なのだ。四歩歩く手前に、すでに紙の側で四が満ちて、角が濃くなる。角が濃くなるたび、見えない距離が縮む。僕は椅子から立ち、床に幅を測るためのテープを貼った。畳の目の幅に合わせて、四歩分。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩目を踏み出す刹那、視界の端でロウソクが異様に細くなって、炎が紙の方へと吸い寄せられた。背中で、数える声が重なる──いち、に、さん、し。四が重なった地点で、準備室の扉が内側から、コンッ、と鳴った。ノックだ。四度、等間隔に。
僕は振り返らなかった。ただ、足を止めた。ロウソクの影が長く伸び、机の脚と影が組み合わさって、箱の中の箱のような形を作る。それは、覗き窓の枠に似ていた。
紙の上で、黒が広がり、行の並びがひとりでに組み替わる。零の行がいちばん上へ滑り、五の行が四の影の位置に落ち、三の行が消えかけて、紙の裏へ潜った。その動きに合わせるように、机の端に置いたスマートフォンが震えた。画面には、留守番電話のアイコンが点滅している。着信履歴には、番号がない。着信時刻は、四時四十四分。現実の時刻は、まだ十分以上早いのに。
「……再生は、今じゃない」
独り言のように言って、僕は紙へ戻る。覗くより、うしろ。行のこの文が、紙の繊維の間でゆっくりと濃くなっていく。僕は椅子に腰を下ろし、あえて“手順”を壊すことにした。四歩のあとに、もう一歩、歩く。五歩目。足を出した瞬間、床の感触がふっと消え、踏みしめるべき地面が半歩ぶん遠のいた。身体が前へ持っていかれる。慌てて机に手をつく。紙の角がわずかに笑ったように見えた。
ルールは、こちらが破る前から、向こう側が先に破っている。そう理解したとき、準備室の窓の外──四階廊下の“開かずの扉”の向こうから、照明のちらつきが走った。ぱち、ぱち、と二度。続いて、かすかな影が扉のガラスに寄る。人影と言うには薄く、煤と言うには立体的だ。角だけが、はっきり黒い。
僕は□へ片目を寄せる。見える。見え方は、さっきよりも鮮明だ。白い室内。机。散乱する紙束。御子柴の背中。肩甲骨のあたりから、何かの“角”が生えている。角と言っても、とがったものではない。四つ角だ。紙と同じ、四隅の濃さが、人の背に生えている。御子柴は振り向かない。視線は、机の上の白い正方形に固定されている。
──いち、に、さん、し。
声が、背中だけでなく、紙の向こうからも響く。二重の数え声が合わせ鏡のように重なって、音の厚みが増す。僕は片目を離し、深く息を吸った。隣の机の引き出しを開け、古い紙やすりを取り出す。四つ角を、削る。紙の角が、削られるたび、乾いた香りが立つ。線香の灰に似た匂い。黒が薄まるかと思ったが、逆だった。角は、いったん白へ戻り、すぐに前より黒くなった。指先に熱が刺す。
破壊は、補強になる。
「先生」
準備室の扉が、ふいにきしむ。水城が立っていた。約束はしていない時間だ。彼女は手に、古い紙束を抱えている。高校の卒業文集のような体裁。表紙にボールペンで「しずの」と書かれている。
「もらってきました。高校のとき、クラスで作った“やり方”のまとめ。覚えている限りで書いたって」
僕は紙束を受け取り、ぱらぱらとめくる。達筆でも稚拙でもない、均一な文字が並ぶ。ところどころに、□の図。四辺の仮名。ページの隅に、鉛筆で小さく書き足された言葉が目につく。「四は言わない」「四は立てない」「四は隠す」。しかし、欄外には別の手が加えたような細い文字で、こうある。「四は消せない」「四を渡す」「四は来る」。
「 “四を渡す”?」
水城が小さく頷く。「高校のとき、途中から“数える役”が決まるんです。誰かが覗くと、背中で“いち、に、さん、し”って数える役が、いつの間にか誰かに移っていく。数える役は、四度目のノックが聞こえたとき、開けてしまう」
「四を、渡す」
僕は呟き、準備室の窓の外を見る。四階の扉の向こうにいる影が、少しだけ首を傾げた。紙を覗く御子柴の背中に生えた四つ角が、わずかに揺れる。紙の上では、手順の文字がまた並び替わろうとしている。零の行が、いっそう濃くなる。
そのとき、机の上のスマートフォンが、また震えた。留守番電話。着信時刻は、やはり四時四十四分。表示に触れる指を、僕は一度止める。水城が無言で頷いた。再生ボタンに触れる。スピーカーから流れたのは、無音──ではなかった。無音の、はずの帯の底に、擦れた音が潜んでいる。耳を近づける。紙を擦る音。折り目に指を落とす音。遠くで、薄い声。
──し ず の は の ぞ く
音声はそこで切れ、すぐに同じ長さの無音が続いた。僕は録音を巻き戻し、逆再生の機能はないかと設定を探りかけて、やめた。今、それをやるべきではない。
「手順は、向こうからも動く」
僕は紙束と白紙を見比べながら言う。「こちらが順番を直しても、向こうが並べ替える。四を隠しても、向こうが立てる。四歩をやめても、向こうが歩かせる」
「じゃあ、どうすれば」
「順番を奪い返す。こっちから“零”に触れたように、向こうの“零”をずらす」
僕は白紙の中央の□を、鉛筆でゆっくりと広げた。正方形の辺を、ほんの少し膨らませ、角を丸くする。正方形は、やがて“穴”に近づく。窓ではなく、穴。覗くものではなく、落ちるもの。広げた瞬間、部屋の空気が低く鳴った。ロウソクの炎が、風もないのに横倒しに揺れ、四つ角の黒が、まるで呼吸を忘れたように止まった。
窓の外の“開かずの扉”に、変化があった。ガラスの向こうの影が、四つ角の形を解いて、輪郭の薄い“人”になった。人は、扉の向こうで、こちらに背を向け、四歩を踏む。いち、に、さん、し──そして、振り返らない。その背中に、四つ角が再びゆっくりと芽吹く。扉のガラスが、内側から曇る。指先で触れたように丸い跡が四つ、外側の四隅に並んだ。
「先生」
水城が囁く。「 “数える役”、今はだれですか」
僕の背中の皮膚が、薄い紙のように、きし、と鳴る。準備室の扉が、ふたたび内側から、四度、叩かれた。さっきと同じ強さ、同じ間隔。僕は振り返らず、ロウソクの火を両手で囲う。炎が掌の影の中で、細く、まっすぐになった。
──いち、に、さん、し。
声は、もう、僕の背中ではなかった。机の上の白い正方形の、内側からだった。数え終わった直後、紙の中央の□が、ほんのわずかに沈む。そこはもう、窓ではない。穴だ。穴の底から、こちらを見上げる視線がある。こちらの視線と、向こうの視線が、刹那、完全に一致する。冷たい空気が指の間を駆け上がり、首の後ろへ触れた。
「手順を奪ったつもりが、向こうもまた、こちらの零に手を伸ばす」
僕はゆっくりと、紙から手を離した。「まだ、四は来ていない。でも、四はいつでも、ここにいる」
遠くの廊下で、時計の鳴らない古い掛け時計が、音のないまま時刻を刻んだ気がした。四の上に、四が重なる。その重なりが、紙の角へ落ちていく。
スマートフォンの留守番電話が、もう一度震えた。今度の通知は、件名にただ一文字──「し」。発信元は、空白。着信時刻は、四時四十四分。画面の光が、白い正方形の上に落ち、□の縁が、いっそう深く沈む。
覗くより、うしろ。
うしろより、覗く。
手順は二重に重なって、これから、僕と水城の足元を整然と“整える”つもりでいる。四歩の、先の、四歩まで。
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