しずのさん
灯ル
【序章 白い正方形】
封筒は、雨に濡れたように冷たかった。宛名はない。差出人の欄には、細い筆致でただ一文字──「し」。
中から出てきたのは、真っ白な紙が一枚。正方形に切りそろえられ、薄く折り目が入っている。紙の四辺には、間を空けた仮名が置かれていた。
──し ず の
──う し ろ
──よ り
──の ぞ く
中央には小さな□が鉛筆で描かれている。誰かの悪ふざけだと見なして捨てればよかった。けれど、封筒の底から落ちた二枚目の紙が、捨てるという選択を奪った。そこには手順が書かれていたからだ。
一、□の四辺の文字を指でなぞる
二、灯りをひとつだけ用意する
三、見たい相手の名を、心の中で一度だけ呼ぶ
四、□の中心を片目で覗く
五、四歩あるいて、振り返ってはならない
最後の行だけ、濃い鉛筆で繰り返されている。「振り返ってはならない」。紙の縁には微かな汚れ。誰かの指の跡に見えた。いたずらの痕跡。けれど、その汚れの並びは不思議と規則的だった。角、角、角、角──四つ角だけが少し黒い。
その夜、部屋の灯りを全部消し、机の上に安物のロウソクを一本立てた。火を点けると、部屋の輪郭が溶け出して、紙の白だけが浮いた。まるで氷の窓だ。
「……笑える話を、今なら笑えるうちに」
自分にそう言い訳して、僕は□の中心に片目を寄せた。心の中で、見たい相手の名を一度だけ呼ぶ。大学の同僚──御子柴。いつからか連絡が途絶えた、あの人の名を。
視界の奥で、何かが合焦する気配がした。紙の裏側に、別の夜が貼りついている。ロウソクの火が細り、また太る。呼吸のたびに窓の外から、薄い風が鳴った。
最初に見えたのは、天井のシミだった。次に、狭い部屋、開きっぱなしのノートパソコン、緑のステッカー、空になったカップ。御子柴の部屋だ、と直感する。机の上には、僕の知らない紙が広げられていた。白い正方形。四辺の仮名。中央の□。
同じ紙。
僕は□から片目を外した。火が揺れ、部屋の温度が戻る。指先が冷たい。手順の四までを踏んだ。五は、四歩あるいて、振り返らない。ばかげている。でも、ここまで来ると、破り捨てるよりも、手順どおりに終えたい気持ちの方が強くなる。儀式は、その気持ちにつけ込むのだろう。
一歩。畳の目を踏む感触。
二歩。壁のさき、暗がりに重なる自分の影。
三歩。ロウソクの火が背中に触れているような、妙な熱。
四歩。ドアの前。
振り返らない。そう思った瞬間、背中で、小さく、数える声がした。
──いち、に、さん、し。
幼い声でも老いた声でもない。あたかも誰かの口から漏れた息と、紙が擦れる音が混ざったような、乾いた声。ドアノブに手をかけたまま、指の関節が固まる。
──いち、に、さん、し。
同じ調子で、同じ速さで、同じ数まで。そして止まる。僕は目をつぶって、息を一度だけ吸い、ドアを開けた。廊下はいつもの廊下。暗いだけで、誰もいない。四歩の先には、現実しかないはずだった。
なのに、振り返らなかった背中の向こう、机の上から紙の音がした。ぺらり、と。風もないのに捲れる音。開く音。四つ角が、さらに濃くなっていく気配があった。
あの夜から、御子柴の所在は、本当にわからなくなった。大学の机は片づけられ、研究室の鍵は返却されていた。最後に使われた形跡は、僕が紙を覗いた夜の、ほんの少し前で終わっている。白い正方形の余白だけが、部屋のどこかに、まだ残っている気がした。
手順の紙の裏側には、鉛筆で細く書き足された行がひとつだけあった。気づいたのは、数日経ってからだ。
──覗くより、うしろ。しずのは、のぞく。
それが、序章。僕が四歩歩いたとき、背中で誰が「し」まで数えたのかを知るのは、ずっとあとになる。
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