第41話 エピローグ ― 観測者と被観測者

 冬がやわらいで、空の色がわずかに薄くなる頃、東京の朝は歩く速度を少しだけ緩める。窓の向こうを流れる雲は、以前よりも輪郭が丸い。僕はいつものようにキッチンで湯を沸かし、静かに豆を挽く。ミルの回転は、心拍に似た一定の律動を刻み、粉になった豆は湯に触れて、小さく息を吐くように膨らむ。

 玲奈は、少し遅れてダイニングに現れる。髪を後ろでまとめ、目尻に寝起きの気配を残したまま、カップを両手で包む。

「今朝は、観測しない」

「了解」

 そう言って、僕らは互いに視線を外す。意識的に“測らない”時間をつくる。沈黙に耳を澄ますと、冷蔵庫の細い唸りと、遠くで始まった工事の低い振動音が、街の体温のように続いていた。

 観測しない、という選択は、不思議に豊かだ。見ようとしないことで、むしろ輪郭が勝手に立ち上がる瞬間がある。コーヒーの香りに重なる、石鹸の淡い匂い。テーブルに置かれた指先の、紙と皮膚が擦れる微かな音。そこに数値はないが、確かな現在だけがある。

 午前が伸びて、光が部屋の奥まで届く頃、僕はノートを開く。端に書きつけた公式や図は、かつてより簡素になった。ページの余白は広く、白いままのスペースは、未解決の問題ではなく、呼吸に近い余裕として残してある。

 光速は不変。けれども、人と人の速度は可変だ。観測者と被観測者が入れ替わり続ける関係は、双方向の加速度を引き受ける。観測は愛情の一部であり、愛情は観測の一部でありうる。僕はそう書いて、ペン先を止めた。

 昼は外に出る。丸の内の並木は、冬の衣をほどきながら、新しい芽の気配を隠し持っている。予約していた小さなビストロでは、ランチのスープが湯気を立て、器の縁に小さな水滴を残していた。スプーンを口に運んだ玲奈が、ふと笑う。

「器がいい。熱の逃げ方が含蓄に富む」

「相変わらず、造形の観測者だね」

「あなたもね。今の一口、少し速かった」

 僕らは笑い、グラスの水で口を整えた。ワインではなく、水でよかった。透明な液体は、速度をそろえるのにちょうどいい。

 午後、オフィスに顔を出す。研究室のホワイトボードには、同時観測の再現実験の計画が簡潔に残されている。新しい被験者募集のフォーム、遅延解析のアルゴリズム、そして倫理審査の追加文面。僕は最後の項目に丸を付ける。観測が相手を変えうる以上、測るほど丁寧に守らなければならない境界がある。愛情に近づくほど、その線引きは鋭敏になる。

 夕方、白石隼人から短いメッセージが届く。「旬、逃すな」。彼らしい合図だ。返信はさらに短くする。「了解」。文字の往復は数秒で終わるが、その背後にある時間は長い。彼の忠告は、季節と同じ速さで効いてくる。

 夜、スーパーで買った野菜を刻み、オーブンのタイマーが鳴るあいだに、僕はワインセラーから一本を選ぶ。ブルゴーニュのピノ・ノワール。栓を抜く音が、台所の明かりを揺らす。

 立ちのぼる香りは、旅の記憶を静かに連れてくる。パリの石畳、サンフランシスコの霧、銀座の雨。いずれも、過去形の匂いだ。けれど、グラスを傾ける僕の手は、確かに現在へ傾いている。

 食卓につくと、玲奈はワインを少しだけ。彼女はお酒に強くないが、以前よりも表情はやわらいでいる。

「今日は果実味がやさしい。温度のせいかな」

「それも。あと、僕らの速度だ」

「速度?」

「いま、同じだから」

 彼女は目を細めて、テーブルの木目を指でなぞった。その線は、波形にも道にも見える。観測しなくても、同期は手触りとして在る。

 片づけを終えると、ベランダに出た。低い雲が街の灯りを受けて、うすい桃色をしている。遠くで救急車のサイレンが伸び、その音が建物の角で折れ、遅れて届く。都市の空気は、いつも少し時間を曲げて僕らに返す。

 僕は手すりに肘を置き、目を閉じた。観測とは、結局、距離の配分だ。近づきすぎれば、相手の粒子は乱れる。離れすぎれば、温度は下がる。愛情が求めるのは、その中間の、わずかに指先が触れるくらいの遠さだ。

 スマートフォンに保存された過去の写真を、ときどき見返す。奈々の笑顔も、そこにある。見れば胸は確かに波打つが、それは懐かしさという名の、静かな波だ。未完だった対話は、もう完結している。写真は時間の外側に置かれ、いまの速度には干渉しない。僕は画面を閉じ、深く息を吸う。肺の奥まで入った空気は、今日の匂いがした。

 室内に戻ると、玲奈はソファで本を読んでいた。僕はその背を見て、何も言わずに隣に座る。言葉が要らない夜がある。観測を休むことで、かえって互いの存在は濃くなる。

「ねえ」

 ページを閉じずに、玲奈が言う。

「今度の学会、パリじゃなくて、チューリッヒに決まったって」

「寒そうだ」

「うん。でも、湖が綺麗らしい」

「だったら、ワインは少し重めにしよう。寒さに勝てるやつ」

「あなた、そういうときだけ決断が速い」

 僕らは笑い、ページがまた一枚、静かにめくられる。

 夜更け、照明を落とす。電源の切り替わる微小な音が空気を震わせ、部屋は輪郭をやさしく失う。寝室に歩きながら、僕はふと振り返って、暗がりに沈むテーブルを見た。そこには空のグラスが二つ、わずかに宙の光を集めていた。

 ベッドに横になると、遠いところで風が鳴る。玲奈の呼吸は、波のように規則的で、耳を澄ませば胸の奥の怖れを洗っていく。目を閉じる直前、僕は心の中で、ひそかに数式をひとつ書く。

 c は不変。

 私たちの v は、選べる。

 ただそれだけの、簡潔な式。だが、そこに辿り着くまでに要した実験と会話と沈黙の長さを思えば、十分に豊かな定理だ。

 眠りに落ちる直前、もうひとつの確信が胸を通り過ぎる。観測とは、支配でも証明でもなく、同伴の技術だということ。隣を歩きながら、相手の中の未来を信じる訓練。数値に置き換えられないものを、数値の外で守り続ける手つき。

 明日の朝も、豆は挽かれ、湯は立ちのぼるだろう。観測する日も、休む日もある。迷う日も、速く決める日も。けれど、どの日も同じ速度で始め、同じ速度で終わらせる努力はできる。

 その努力の名を、僕はようやく愛情と呼べる気がする。

 街の光は、雲の裏側で薄く滲む。遠くのどこかで、新しい物語が点灯する。僕は眠りの手前で、ほとんど聞こえない声でつぶやく。

「おやすみ、観測者。おやすみ、被観測者」

 そして、光速の外側――人の時間の速度で、夜は静かに、確かに、僕らの上を通り過ぎていった。


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恋の相対性理論 酒と女と六本木 @Roppongi

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