第39話 奈々との完全な別れ ― 未完の会話の終わり

 その日の東京は、夕方から冷たい雨が降っていた。水滴が街灯の光を受けて細かく砕け、アスファルトに淡い輪を描く。僕は銀座の交差点で信号を待ちながら、傘の縁から滴る水をぼんやりと眺めていた。

 奈々から「話したい」という短いメッセージを受け取ったのは、前日の夜だった。言葉は少なく、日時と場所だけが淡々と記されていた。その簡潔さは、僕を安心させるどころか、胸の奥に重い予感を沈めた。


 待ち合わせの店は、以前二人で訪れたことのある小さなワインバーだった。ドアを押し開けると、室内は外の雨音から切り離された温もりをたたえている。壁の棚にはフランスとイタリアのワインが整然と並び、キャンドルの光が琥珀色の影を作っていた。

 カウンターの奥、窓際の席に奈々はいた。黒いタートルネックに細身のパンツ、髪は肩にかかるくらいで、以前より少し短くなっている。その表情は、柔らかく笑ってはいるが、瞳の奥に慎重な光を宿していた。

「久しぶり」

「……久しぶりだな」

 向かいに腰を下ろすと、店員がワインリストを差し出してきた。奈々は一瞥しただけで「前と同じボルドーを」と告げる。僕は頷き、同じものを頼んだ。


 グラスに注がれる赤は深く、わずかに紫を帯びている。香りを確かめながら、僕らはしばし言葉を探すように沈黙を共有した。

「あなたの“観測”の話、あれからずっと考えてた」

「……そうか」

「最初は、ただ面白い理論だと思ってた。でも、ヨーロッパを回ってる間に、ふと気づいたの。誰かを見続けるってことは、自分を相手に委ねることでもあるんだって」

 僕はグラスを回しながら、その言葉の重みを確かめた。

「委ねる?」

「ええ。観測される自分を受け入れるには、相手を信じなきゃいけない。でも、私はそれができなかった」


 奈々の視線はテーブルの上のグラスに落ちていた。

「パリでの夜、あなたが何を見ていたのか、私は気になって仕方なかった。笑っている私の顔? それともワインの色? それとも別の何か?」

「全部だよ」

「そうだとしても、私は“全部”という答えに安心できなかったの」

 雨音が少し強くなり、窓ガラスを叩く音が会話に混ざる。

「だから、あの時も……選ばれるのを待つのが怖かった。自分が選ばれない未来を観測されるのが、何よりも」

 その言葉は、鋭くも静かに胸を刺した。僕もまた、選ぶことから逃げ続けていた時期があった。それは、彼女を不安にさせるだけだったのだ。


 店員がチーズの盛り合わせを運んできた。奈々は小さく礼を言い、ブリーをナイフで切り分けた。

「今日は、ちゃんと終わらせたくて来たの」

「終わらせる?」

「ええ。このままじゃ、私たちはずっと未完のままだから」

 その言葉に、僕は深く息を吸った。

「奈々……ありがとう。そう言ってくれて」

「ありがとうなんていらないわ。ただ、お互いに影響を与え合う関係を、このまま中途半端に続けるのはやめたい」

 彼女の声は静かだったが、その一語一語は揺るぎなかった。


 グラスのワインを口に含むと、熟した果実の甘みとわずかな渋みが広がった。それは、かつて二人で過ごした時間のように複雑で、簡単には言い表せない味だった。

「最後に一つだけ、聞いてもいい?」

「何でも」

「今、私を見て何を感じる?」

 僕は彼女をまっすぐ見つめた。外の街灯が髪に反射し、瞳に小さな光を宿している。

「綺麗だと思う。それと……もう手放す覚悟ができた」

 奈々は少しだけ笑い、それから視線を窓の外に移した。

「それなら、いい終わりね」


 会計を済ませ、外に出ると、雨は小降りになっていた。銀座の街は濡れた石畳に光を反射させ、夜を柔らかく照らしている。

「じゃあね」

「元気で」

 奈々は傘を開き、反対方向へ歩き出した。僕はその背中が小さくなるまで見送った。

 不思議なことに、胸に残ったのは喪失感ではなく、静かな充足感だった。未完だった会話が、ようやく終わりを迎えたのだ。

 足元の水たまりに映る街灯の光が揺れ、その揺らぎの中に、彼女の影が薄れていくのを見た。僕は傘をたたみ、冷たい雨粒を受けながら歩き出した。

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