第37話 静かな朝 ― 観測のない時間
冬の光は、都会のビルの隙間から遅れてやってくる。玲奈の部屋の窓辺にも、やっと淡い陽射しが入り始めていた。カーテンの隙間から差し込む光は、まだ眠りの匂いを残した空気を少しずつ温めていく。
僕はキッチンでコーヒーを淹れていた。豆を挽くリズム、湯を注ぐときに立ち上る蒸気、深煎り特有の香ばしさ。それらは、この部屋の朝を形づくる音と匂いだ。
背後から小さな足音が近づき、玲奈がパジャマ姿で現れた。髪はまだ乱れ、目元には眠気が残っている。
「おはよう」
「おはよう。いい匂い」
マグカップを差し出すと、玲奈は両手で包み込み、鼻先を近づけて香りを吸い込んだ。
「こういう時間、好きだわ」
「観測されてない時間だから?」
「そう。何も測られず、何も確かめず、ただ一緒にいるだけ」
彼女はソファに座り、膝を抱えて窓の外を見ている。ビルの間を抜ける光が、ゆっくりとカーペットの上を移動していく。僕も隣に腰を下ろし、しばらく無言のままコーヒーを啜った。
この沈黙は、以前なら不安を伴ったかもしれない。会話の途切れは距離の始まりのように感じられた。しかし今は違う。沈黙は、同じ速度で時間を共有している証のように思える。
「今日はどこか行く?」
「行かない日もいいんじゃない?」
「それもいい」
午前中は、互いに好きなことをして過ごした。玲奈はキッチンでスコーンを焼き、僕はダイニングテーブルで昨日のメモを整理した。ペンの走る音と、オーブンから漂う甘い香りが、部屋をゆったりと満たす。
昼前、スコーンが焼き上がり、テーブルに並べられた。外はさっくり、中はふんわりと温かい。バターとジャムを添え、紅茶を注ぐ。
「これ、観測に入る?」玲奈が冗談めかして聞いた。
「入らないな。ただの記憶にする」
「じゃあ、もっと食べていいのね」
午後になっても、僕らは部屋から出なかった。窓際で本を読んだり、音楽を流してうたた寝をしたり。外の世界は相変わらず速い速度で動いているのだろうが、ここだけは別の時間が流れているようだった。
夕方、沈む陽が部屋をオレンジ色に染めたころ、玲奈がぽつりと言った。
「こういう日があると、観測なんてなくても、ちゃんと繋がってるって思える」
「それが、一番確かな観測かもしれない」
言葉の後、また静寂が戻った。しかしその静けさは、どこか満ち足りていて、未来へ向けた呼吸のように心地よかった。
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