第26話 再び歩き出す夜 ― 決意の確認

 玲奈と別れ、丸の内の並木道を一人で歩く。冷えた夜気がコートの隙間から入り込み、首筋をくすぐる。吐く息は白く、イルミネーションの光を受けて一瞬だけ淡く輝き、すぐに夜の闇へ溶けていく。

 さっきまで隣にあったはずの体温が、歩くたびに遠ざかる。それでも、胸の奥には彼女の真剣な眼差しが焼き付いていた。「もっとこっちを見て」。その言葉が、ビルの壁に反射する自分の足音と同じリズムで何度も蘇る。

 交差点の信号が青に変わり、人の流れがゆるやかに動き出す。僕はスマートフォンを取り出したが、画面には未読の通知はなかった。奈々からも玲奈からも、何の音沙汰もない。けれど、この沈黙が不思議と落ち着きを与えてくれる。今は、外からの情報よりも、自分の内側を観測する時間が必要だと感じていた。

 東京駅前の広場を抜け、タクシー乗り場を横目に歩く。石畳の上に落ちるイルミネーションの反射は揺らぎながらも一定のリズムを保ち、その光景がまるで自分の心の鼓動を映しているように見えた。

 家に着くと、コートを脱いで椅子に掛け、靴を揃える。静かな部屋の空気は外気よりも温かく、ほっとしたように深呼吸する。棚の上の小さなワインセラーから、一本のボトルを取り出した。選んだのは、先日玲奈と飲んだブルゴーニュのピノ・ノワール。同じ香りをもう一度確かめたくなった。

 コルクを抜くと、ふわりと甘酸っぱい香りが立ち上り、台所の明かりに照らされた空気の中で漂った。グラスに注ぎ、液面がゆっくりと揺れるのを眺めながら、窓辺に腰を下ろす。外では遠くのビル群が冷たい光を瞬かせ、車のテールランプが一定の間隔で流れていく。

 一口含むと、酸味と果実味が舌に広がり、かすかな渋みが喉奥に残った。その感覚が、今日の出来事を静かに包み込み、玲奈の声や表情を鮮やかに呼び戻す。あの夜道で交わした沈黙さえも、今は輪郭のある記憶としてそこにある。

 ふと、机の上に置きっぱなしになっていた研究ノートが目に入る。ページをめくると、「光速不変の原理」「観測による感情の収束」「時間の歪み」と、これまで繰り返し書き連ねてきた文字が並んでいた。その余白に、ゆっくりと新しい言葉を書き加える。「覚悟」。

 どんなに精密な理論も、最後は行動によって証明される。計算式だけでは未来は動かない。選び、進む――それが今の僕に必要な方程式だった。

 グラスを傾けながら、奈々から届いた雪景色の写真を思い出す。そこに映る白い街並みと、ホットワインを持つ手。あの便りがなければ、今夜ここで自分の内面と向き合うこともなかっただろう。彼女の存在も、玲奈の存在も、同じ速度で僕の中を通り抜けていく。しかし、どちらに焦点を合わせるかは、僕自身が決めなければならない。

 スマートフォンを手に取り、玲奈へのメッセージ画面を開く。指先がためらいがちに文字を打つ。「次に会うとき、話したいことがある」。送信ボタンを押すと、胸の奥で小さな音を立てて何かが動き出した気がした。

 返信はすぐには来なかった。それでも構わなかった。答えを急ぐ必要はない。観測し続ければ、やがて波は収束する。外では風が強まり、窓ガラスがかすかに震えている。僕はグラスを空にし、ゆっくりと立ち上がった。

 今夜、僕は一つの決意を確かめた。過去も未来も、観測しなければ形を持たない。ならば、僕が観測するのは――これから隣にいるべき人の姿だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る