第23話 奈々の便り ― 予期せぬメッセージ

 翌週の水曜、午後の仕事を終えて自宅に戻った僕は、ジャケットをソファの背に掛け、テーブルに置いたグラスに水を注いだ。冬の夕方は暗くなるのが早い。窓の外では、街路樹の影が街灯の光に揺れている。

 スマートフォンの画面が、テーブルの上で小さく光った。新着メッセージの通知。開くと、そこには奈々の名前があった。最後に直接会ったのは銀座のバーで、それからは短い業務連絡のようなやり取りが数回だけだ。

 本文は短かった。「今、ウィーンにいるの。こっちは雪が積もってる」

 その一文に、添付された写真。雪に覆われた通り、クリスマスマーケットの屋台、ホットワインを持つ奈々の手だけが写っている。顔は映っていないが、指先の形やカップを持つ角度で、それが彼女だとわかる。

 僕は返信に迷った。単純に「きれいだな」と送ることもできるし、何も返さずに眺めているだけでもいい。けれど指は自然に動き、「寒そうだな。体に気をつけて」と打っていた。

 数分後、また通知が鳴る。「ありがとう。こっちは空気が澄んでて、夜空の星がすごく近くに見えるの」

 その文章を読んでいると、パリでの夜景が脳裏に浮かんだ。セーヌ川の水面に映る街灯、そしてバカラのグラスを傾けて笑う奈々。

 僕はグラスの水を飲み干し、キッチンへ向かった。無意識のうちにワインのボトルを手に取っていた。コルクを抜く音が静かな部屋に響く。グラスに注ぎ、香りを確かめると、酸味と甘みの混ざった香りが立ち上る。

 ソファに戻り、再びスマートフォンを手にした。奈々からの次のメッセージはまだ届いていない。画面を伏せ、ワインを口に含む。液体の重みが舌に広がり、かすかな渋みが喉奥に残る。その感覚が、過去と現在を同時に引き寄せた。

 奈々は、どんな思いで今この街にいるのだろう。観光の合間に送っただけの軽い便りなのか、それとも僕に何かを伝えたいのか。メッセージの短さが、かえってその真意を測りにくくしていた。

 ふと、机の上の玲奈の研究資料が目に入った。感情スコアのグラフ――観測が感情を収束させる瞬間が記録された曲線。僕はその紙を手に取り、奈々のメッセージと重ねて考えた。あの雪景色の写真も、ある種の観測だ。受け取った時点で、僕の中の感情は何らかの形で確定してしまう。

 気づけば、返信画面に指を置いていた。「帰ったらまた話そう。ゆっくりでいい」。

 送信して画面を閉じる。しばらくして通知が鳴る。「うん、そうしよう」。その文字は短かったが、行間にはまだ読み取れない何かが潜んでいる気がした。

 外はもう夜になっていた。窓を開けると冷たい空気が流れ込み、街の灯りが滲んで見えた。ワインをもう一口飲み、僕はグラスをテーブルに置いた。心の奥に、小さな波紋が広がっていくのを感じながら。

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