第17話 玲奈がワインに挑戦 ― 初めての一口

 東京の冬は、空が澄み切っている分、夜の訪れが早く感じられる。その日、仕事を終えた僕は、待ち合わせ場所の神楽坂の路地を歩いていた。石畳に街灯が柔らかな光を落とし、足元の影がゆっくりと揺れる。

 約束の店は、小さな看板を掲げたビストロだった。木製の扉を押すと、カランと鈴が鳴り、奥から漂うガーリックとローズマリーの香りが鼻をくすぐった。

 テーブル席に案内されると、既に玲奈が来ていて、淡いグリーンのワンピースにベージュのカーディガンを羽織っていた。

「こんばんは」

「こんばんは。今日はちょっと試してみたいことがあるの」

 彼女の声には、少し緊張が混じっている。

「試してみたいこと?」

「ええ。ワインを飲んでみようと思って」

「本当に? お酒が苦手って言ってたじゃないか」

「だからこそ。あなたがいつも話すワインの世界を、少しだけ覗いてみたくなったの」

 メニューを開き、料理と合わせて選んだのは、軽めの赤ワイン。ブルゴーニュのピノ・ノワールで、果実味と酸味のバランスが柔らかく、初めて口にする人にも優しい。

 ソムリエがボトルを持って現れ、コルクを抜く音が小さく響く。その瞬間、グラスに広がる赤い液面に照明が反射し、わずかに揺れた。

 玲奈はグラスを両手で包み、香りを確かめるように鼻を近づけた。

「……思ったよりも優しい香り」

「イチゴやラズベリーのニュアンスがあるからね。酸味も強くない」

 彼女はゆっくりとグラスを傾け、赤い液体を口に含んだ。

 一瞬、瞳を閉じた後、玲奈はふっと笑った。

「……不思議。苦いだけかと思ってたのに、果物みたいな甘さもある」

「時間をかけて飲むと、もっと違う表情を見せるよ」

「恋愛と同じね。最初の印象だけじゃ分からない」

「含蓄に富む例えだ」

 前菜が運ばれてくる。白いプレートの上には鴨肉のパテとカンパーニュ。玲奈はフォークで小さく切り、口に運んだ。ワインをもう一口含むと、彼女は驚いたように僕を見た。

「さっきより、香りが広がる」

「食べ物と合わせると、ワインは変化する。それがペアリングの面白さ」

 会話は自然と、料理や器の話に広がった。テーブルに並ぶ白い磁器の皿の縁には、繊細なレリーフが施されている。

「このお皿、すごく軽いのに、安定感がある」

「高温で焼き締めた磁器だな。器は料理を支えるだけじゃなくて、食べる人の所作まで変える」

「まるで、関係性の器みたい」

 僕は微笑んだ。「それも含蓄に富んでるな」

 メイン料理は仔羊のロースト。ワインは空気と触れ合って、香りに深みが出てきた。玲奈はゆっくりと味わいながら、頬を少し紅くしていた。

「弱いって思ってたけど、こうして少しずつなら楽しめるかも」

「無理しなくていい。でも、君とこうして同じものを味わえるのは嬉しい」

 食後、デザートワインが少量だけグラスに注がれた。黄金色の液体がキャンドルの灯りを受けて輝く。

「これも試してみる?」

「ええ」

 口に含んだ瞬間、玲奈は目を見開いた。「甘い……でもしつこくない」

「遅摘みのぶどうから作るから、糖度が高くて香りも豊かなんだ」

 店を出る頃、街はすっかり夜に包まれていた。神楽坂の坂道を並んで歩きながら、玲奈はぽつりと言った。

「今夜のこと、きっと忘れないと思う」

「僕もだ」

 冬の空気は冷たいのに、二人の間には不思議な温かさが漂っていた。

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