第9話 東京・築地での朝食 ― 隼人と
翌週の早朝、まだ空が薄い灰色をしている時間に、僕は築地市場の入口に立っていた。冷たい風が頬を刺し、魚や海藻の匂いが入り混じった空気が鼻腔に広がる。
市場はすでに目覚めており、フォークリフトの走る音や呼び込みの声、発泡スチロールを開ける音が混じっている。
少しして隼人が現れた。黒いコートに毛糸の帽子をかぶり、片手に紙コップのコーヒーを持っている。
「やっぱり築地は朝がいいな」
「眠ってる暇なんてない場所だな」僕は笑った。
市場の通路を進むと、左右に魚の箱が並び、マグロ、ブリ、サンマ、イカが氷の上で輝いていた。
「魚も恋愛もな、鮮度が命だ」隼人が言った。
「寿司の時と同じ話だな」
「そうだ。旬を逃すなってことだ」
「でも、寝かせて旨くなる魚もあるだろ」
「それは元の素材が良いからだ。恋愛も同じだ。最初が悪けりゃ熟成しても意味がない」
彼が案内したのは、暖簾の奥にある小さな食堂だった。カウンター席だけの店内には、出汁の香りが漂っている。
「ここは刺身定食がうまい。あと、出汁巻き卵もな」
席に着くと、湯呑みが置かれ、温かいお茶が手を温めた。
やがて、刺身定食が目の前に並んだ。マグロ、ブリ、ホタテ、イカ。それぞれが鮮やかな色を放ち、皿の上に小さな海を作っている。
マグロを醤油に軽くくぐらせ口に運ぶと、冷たい身が舌の上でとろけ、潮の香りが広がった。隼人はホタテを頬張りながら、「悠人、お前は考えすぎる癖がある」と言った。
「理屈は大事だが、最後は飛び込む勇気だ」
出汁巻き卵が追加され、その甘い香りと湯気が立ち上る。箸で割ると、中から黄金色の層が現れた。
「これも、作りたてが一番だ」隼人が言う。
「……わかってるよ」
外に出ると、市場の上空に朝日が差し込み、氷の上の魚が一層輝いて見えた。
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