第11話 夜の封を眠らせる



 夜は薄墨のように濃く、塔の影が低く伸びていた。外套の襟を立て、机の帳簿に手早く数字を入れる。


受け取り:水+0.30/風+0.10

支払い:身体−0.22(遅延・二重受け・三分け)+道具−0.05

安全率:1.11(実測)


 半拍遅れて律環が脈を返す。今夜は南区の旧聖遺構。伝令によれば、黒封が「温」を帯び始めている。呼ぶな。冷まして置き換える。覚え直した言葉を、喉の奥でそっと反芻する。


「行くよ」

 扉口のセラが短く言った。肩越しに、シグルドの銀の瞳が夜を映す。黒衣の告解司は一歩後ろ、気配を薄くして立っている。リナは工具布の端を指で押さえ、焦げた小さな跡を確かめてから頷いた。古い火の記憶が布に残っている。


     ◇


 南区の地下口は、神殿から延びる古い回廊のさらに下にあった。鉄の柵は錆び、鍵穴には祈りの刻みが薄く残る。臨時封鎖の札は剥がれ、何者かの手で脇に寄せられていた。


 階段を降りるほど、空気は乾いて、代わりに温が増す。薄鼓を雲母越しに壁へ添えると、皮の下で短い呼吸が揺れた。三拍ではない。強・強・弱――粗い、乱れた歌だ。


「誰かが呼びかけた後だ」シグルドの声が低い。「止が薄い」


 曲がり角を抜けると、広間が口を開けた。天井は低く、柱が並び、その一本一本に黒い蝋の残滓が絡みついている。中央の石台には、箱。蓋は閉ざされ、黒封が幾度も重ね押しされていた。そのすぐ横で、二人の若い神官見習いが炭を焚き、低く祈っている。祈りは熱を呼び、黒封の表面にじわりと光沢が広がっていた。


「やめろ!」セラの声が刃みたいに走る。「呼ぶな。冷ます」


 見習いたちは凍り、こちらを見た。告解司の黒衣を見るなり、狼狽の色が滲む。「し、静室の許可は――」

「許可はある」告解司は一歩だけ進み、炭の火を足で払い落とした。火は石に散り、じゅ、と音を立てて消える。「名も、土の耳も、主声も揃っている」


 広間の拍はまだ荒い。強・強・弱。二つ続く強が、胸の骨を内側から叩く。


「段取りは昼間と同じ」セラが短く言う。「土の耳、墨鈴、薄鼓。シグルドは主声で止を深く。アルディスは窓と二重受け、リナは逃がし口。支払いは三分け」


 俺は石台の足元に携行型の土の耳を据え、細い水を溝に流した。墨鈴が黒い輪で温を拾い、シグルドの主声が強・弱・弱へと広間の揺れを縁取る。薄鼓を箱の縁へ、雲母をその下へ重ね、窓をほんのわずか開く。二重受けを一・二で開き、三で吐く――。


 ――跳ねた。

 黒封の温が一瞬、逆向きに走り、二の口が弾かれる。皮の下に針のような痛み。拍が、四つに割れた。


「封上封(ふうのうえのふう)!」リナが叫ぶ。「黒封に、さらに薄い青封が掛けてある」

 見習いが青ざめて頷いた。「師が……“祈りで冷ますための封”だと――」


 祈りで冷ますための封。青は詠唱側の冷却印だ。だが、黒と青が重なれば、三拍の歌は四拍に歪む。


「四拍律に合わせる。一・二で受け、三で止、四で吐く」セラは息を乱さない。「シグルド、止を三で深く」


 主声がわずかに降り、広間の底にもう一段、暗がりが開いた。俺は短律環を叩き、受けの口を一・二へ、止を三へ置く。長律環を浅くして、吐の四で土の耳に落とす。リナの銀糸が逃がし口を二重に分け、片方を床へ、片方を土へ。


 黒の温が、少しずつ落ち始めた。青の薄い封は止でかすかに震え、それを墨鈴が吸う。薄鼓の皮に刺の痛みは走らない。呼んでいない。


「いま」告解司が低く名を置いた。彼の掌が石台に触れ、人の受けが短く開く。

 黒が静になり、青が遅れて静に続く。二つの粉が分かれて崩れ、土の耳の黒砂に吸い込まれていく。


 見習いの肩が落ち、祈りの余韻がやっと静まった。

 セラが短く言う。「箱は置かれた場所で読む。――アルディス」


 薄鼓を油紙越しに重ねる。皮の下に、紙の声。


再接続紙/骨路地下網(旧聖遺構)

律:四拍(青封併用時)

受け:水(二重)。返し:土・床。

主声:一。橋縫い:一。骨守:一。

禁:祈りで呼ぶな。青封は止で冷ませ。

備考:空白年に伴う臨時封鎖。再接続は暫。

記す者:橋縫い/補記:骨守ナユ


 胸の輪が、布の下で冷たく震えた。ナユ――ここにも記されている。


 紙の末尾に、さらに小さな行があった。


追記:旧聖遺構・南第三柱に返しの偏りあり。土が飽和する。人で受けよ。――橋縫い


「偏りが来る」リナが顔を上げる。

 その瞬間、広間の左手――南第三柱の根元で、土が鈍い音を立てた。黒砂の耳が一つでは足りない。返す先が偏ると、土は溢れる。


「耳をもう一つ」セラが即答した。

「ある」リナは工具袋から予備の土の耳を取り出し、第三柱の脇へ走らせる。俺は窓をさらにひとつ開き、受けの口を二重から二重×二に増やした。四脚橋。拍で折れないよう、短律環のリズムを一・二・三・四に軽く刻む。


 主声がわずかに調律を変える。強・弱・弱の三拍の上に、薄い止としての三が一枚重なり、四で吐く隙間が広がる。

 告解司の掌が第三柱の石へ触れ、名のない受けが人として短く開く。借りがそこへ落ちる。セラは俺の律環に触れて貸す。「返すこと」

「返す」

 返すと言葉にすると、膝の笑いが少しだけ静かになった。


 柱の根元の音が弱まり、広間全体の拍がひとつに揃ってきた。四拍は四拍のまま、しかし歪みはない。封は粉になり、紙は読めた。呼ばなかった。


 見習いの片方が震える声で言った。「わ、私たちは、良かれと思って……」

 告解司はきつく叱らない。ただ短く告げる。「空白年の封は、呼ぶな。冷ます。覚えねばならぬ」


     ◇


 箱は戻し、粉は土の耳に落とし切る。広間の黒砂は静かだ。セラが全周を確認し、印をひとつ置く。「共同の功。神殿・術院。――明日、段取り会で報告。公開討議の予行を組む」


 帰り際、柱の影でシグルドが鎖骨の辺りを押さえ、細い輪を衣の中へそっと戻した。小さな輪印。光の角度で一瞬だけ見えたそれは、骨守の輪に似ていた。

「骨も、止の掟で立っている」不意に彼が言った。「呼ばぬのは、お前らだけの徳ではない」

「知ってる」俺は答えた。「だから共同でやる」


     ◇


 地上に戻ると、風は冷たく、星は淡い。寮の机で帳簿を開いた。


受け取り:水+0.28/風+0.08

支払い:身体−0.26(四脚橋・四拍)+道具−0.06(耳×2)

安全率:1.07(実測)


 黒字は薄いが、折れていない。余白に一行、写す。


四拍に止を置き、耳を二つ。呼ばず、冷まして、置き換える。


 窓の外、塔の風見がゆっくり回る。扉の下からセラの札が滑ってきた。短い報せ。


 ――明日、午后。段取り会は公開に近い。神殿席・術院席・市政の目。

 ――止を見せる番よ。技だけで。


 札をつまんだ指先に、布越しの輪が冷たい。ナユの文字は掠れているが、名前は借りの先を指す印だ。

 夜が深くなる。青も黒も、今は眠っている。明日、光の下で、止を見せる。


 ――骨は路。橋は渡。折らず、渡る。

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