第9話 黒い封と土の耳



 雨は夜のうちに上がった。空気はまだ湿っている。机の上の帳簿に、昨日の分を清書する。


受け取り:水+0.3/風+0.2

支払い:身体−0.3(遅延・二重受け・三分け)+道具−0.1

安全率:1.05(実測)


 小さな黒字。だが折れてはいない。手首の律環が半拍遅れて脈を返す。今日は神殿の静室で、告解司に会う。箱の黒い封――黒封蝋の扱いを学ぶ。


     ◇


 静室は昨日と同じく空の器のように静かだった。石台の上に、油紙で包んだ箱を置く。黒い蝋の欠片が、灯の熱で鈍く光る。

 黒衣の男が入ってきた。年は読めない。目だけが暗い井戸みたいに深い。


「告解司だ」彼は名を名乗らない。「黒封は“人へ返す借り”の印。呼ぶな。数えよ、分けよ。……それが掟だ」


 セラが軽く頷き、俺たちの手首の律環に視線を落とす。「返す先は土。受けはこの静室に置く。――箱は開けない。聴くだけ」


 告解司は懐から、黒い輪に墨を満たしたようなものを取り出した。墨鈴(ぼくれい)と呼ぶらしい。

「骨の文は、骨の鈴で読む。お前たちの薄鼓と雲母を重ねろ。骨と橋を並べて、土を挟む」


 手順は簡潔だった。石台の上に箱、下に土への受け。雲母板と薄鼓は箱の上、墨鈴はそのさらに上――骨の側。

 シグルドが壁際に立ち、低い韻律で室の空気の揺れを整える。強・弱・弱――昨夜の水の歌ではなく、静室の止を深くする歌だ。

 俺は二重受けの準備をし、リナは銀糸で逃がし口を土と床へ繋ぐ。セラが支払いの配分を三人に薄く振る。


「始める」告解司が言う。

 墨鈴が石台の上で、音もなく震えた。薄鼓の皮の下に、骨の文が浮かぶ。掌に、冷たい文字の骨が触れた。


……再接続紙(水路紋)

三拍律:強・弱・弱

受け:水(二重)。返し:土・床。

手順:

一、臨時封鎖の側門に窓を置け。

二、二重受けを一・二で開き、三で吐け。

三、骨を冷まし、拍を揃えよ(主声ひとり)。

四、橋を縫い、土に借りを落とせ(橋縫いひとり)。

五、人に返すべき借りは静室で受けよ(骨守ひとり)。

禁:黒封蝋を解かずに箱を開くな。呼ぶな。

記す者:橋縫い


 俺は息をつき、掌に走る骨の硬さを確かめる。欲しかった手順は、ここにある。

 告解司が墨鈴を押さえ、低く言った。「五年前、ここにいた骨守は崩落で死んだ。封は彼が置いた。――あの少年の父だ」

 昨日救い出した少年。腰袋の輪印。胸の奥が少し重くなる。


「封は人のためにある」告解司は続ける。「箱の中身は橋の紙だが、骨の借りが絡む。人の心に返すべき分を土へ押しつけてはならぬ。……呼ぶな」


 セラが短く頷く。「開けない。置かれた場所で読むさ」


 シグルドが韻律を解き、目だけでこちらを見た。「歌は整った。――水路へ行け」


     ◇


 工房棟裏の階段は昨日より暗く、湿り気が濃かった。役人が戸口で震えている。「……また鳴ってる」

 下へ降りると、濁り水は少し澄んでいたが、拍がところどころで崩れている。強・弱・弱の弱が長く引き、どこかで溜まっている。


 側門の前に立ち、俺たちは手順どおりに動いた。

 シグルドが主声を取り、骨の拍を冷まして三拍を整える。

 俺が扉の縁に窓を開け、二重受けを一・二で開いて三で吐く。

 リナは銀糸で逃がし口を土と床へ縫い、受けの口がふくらみすぎないよう雲母板で薄く支える。

 セラは支払いを三人へ分け持ちにし、遅延の配分を刻々と調整する。


 最初の波が静かに落ちた。濁りが二手に分かれ、土が吸い、床が逃がす。

 次の波が大きい。弱がまた伸び、三で吐く前に、扉の向こうで圧が盛り上がる。

「溜まりだ」セラが言う。「二重受けの二を、半拍だけ広げて」

 俺は短律環を軽く叩き、受けの口を一瞬だけ大きくした。

 水がすべり、三で吐けた。

 拍が合う。壁の刻みが低く鳴き、扉の隙間から来る助けを呼ぶ音がやっと細くなった。


「……いける」リナの声が少し明るくなる。「再接続の橋脚、もう一本足せる」

 彼女は銀糸を一本、別の経路に移し、雲母板を重ねて橋脚を増やした。橋が太る。

 シグルドが主声を薄くし、拍を人の呼吸に近づける。

 俺の膝の笑いが出始めたとき、セラの指が律環に触れ、借りのひと口を貸す。「返すこと」

「返す」

 口に出して、もう一拍、踏ん張る。


 やがて、濁りは安定した細流になった。側門の前の臨時封鎖の赤が、昨日より薄く見える。

 俺は窓を畳み、水を土へ返し切ってから、薄鼓を扉に当てた。

 掌に、新しい音が触れる。

 箱の中の紙と同じ手が書いた声――橋縫いの声だ。


……再接続は暫なり。

黒封は人のため。呼ぶな。

空白の五年、骨守は足りず。

橋縫いは散り、歌は乱れた。

歌を戻せ。骨と橋と人で。

封は告解司とともに解け。ひとりで解くな。


 掌が熱くなった。空白の五年――索引から抜け落ちていた年。

 シグルドが短く息を吐く。「歌は戻った。……だが、封はそのままだ」

「明日、告解司と箱の封へ」セラが言う。「解くのではない。冷まして開く」

 告解司が静室で言ったことが、骨の文と重なる。呼ぶな。人へ返す借りは、人で受ける。

 リナが俺の袖を引いた。扉の下、泥の中から銀の輪が光っていた。拾い上げると、骨守の印。昨日の少年のものとは違う古い細工だ。内側に掠れた文字が刻まれている。

 ――ナユ。

「名前……」リナが小さく息を呑む。「骨守にも、誰かの名」

 俺は輪を布に包み、胸の内側にしまった。名は、借りの先だ。


     ◇


 地上に上がると、雲が切れ、塔の風見が滑らかに回っていた。役人が走って来て、肩で息をしながら言う。

「上流の溜まりが静かになった。流れが三拍で戻ってる。……助かった」

 セラは短く頷いて返す。「明日は神殿。封の扱いを学ぶ。――報告は共同の功で」


 術院へ戻る途中、回廊の影でハルメスと行き合った。彼は俺の手元の布包みに目を落とし、言った。

「封は祈りでも解けるが、祈りだけでは人に返す道を見誤る。――呼ぶな」

 それだけ言って去った。突き刺す言い方ではなかった。骨も、呼ばない掟に立っている。


     ◇


 寮で帳簿を開く。今日の数字は、昨日より少しだけよい。


受け取り:水+0.35/風+0.15

支払い:身体−0.25(遅延・二重受け・三分け)+道具−0.08

安全率:1.09(実測)


 余白に、扉で聞いた文の一節を写す。


歌を戻せ。骨と橋と人で。


 筆を置こうとしたとき、胸の布包みの中の骨守の輪がかすかに冷えた。

 次の瞬間、静室の方向から微かな振動が来た。石の床が耳の奥で一度だけ鳴る。

 ――黒封が、どこかで温まった。


 誰かが、別の封に触れたのか。

 明日、神殿へ行く。封を冷まして開く方法を学び、箱を“置かれた場所で読む”。

 骨を折らず、橋を架け、借りを数え、返すために。

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