第7話 古記録庫の欠け目
朝の鐘が二度鳴った。机の上の帳簿に昨夜の数字を足す。
受け取り:風+0.4/音+0.1
支払い:身体−0.2(遅延・三分け・土返し)
安全率:1.12(静室経由)
黒字は小さいが、呼吸は整っている。手首の律環が半拍遅れて脈を返した。今日の目的はひとつ――古記録庫で「橋縫い」の系譜を追うことだ。
石段を降りた先に、術院の古記録庫はあった。扉は低く、内側は冷えた紙と油の匂いで満ちている。棚は背丈の倍ほどあり、巻物と冊子が横たわっていた。書庫長の老人が羽根筆を耳にさしたまま顔を上げる。
「検分使殿と……転生者」
セラが短く首を傾げ、記録票を差し出した。「送風塔と薬房の記録に関わる転記簿・修繕簿・骨路図。閲覧届は通してあるはず」
書庫長は票を透かして見、無言で印を押した。「ただし禁書庫は不可だ。詠唱至上派の許可がいる」
「今日欲しいのは禁書ではないわ」セラは笑わない笑みを作って、歩き出した。
指で背表紙の革を撫でながら、俺は目録を追った。橋縫い、骨守、転記――語は少ない。代わりに「修繕記録」「外部検分」「鎮静報告」といった柔らかい名が散る。やがて、薄い灰色の背の冊子に行き当たる。『骨路補綴(こつろほてつ)・院内連絡簿』。ページを開くと、実務の字で埋まっていた。
――第七塔 吐二拍 補綴済
――薬房南 逆流 水受設置
――搬気紋 静塵除去 詩肋五―三配分改訂
書かれているのは昨日今日のことではない。数年前、十数年前――さらに遡るものもある。欄外に小さく刻まれた印が目に留まった。橋型の細印。見覚えのある形だ。
「橋縫いの印……」リナが覗き込み、眉を上げる。「でも、インクが二種類」
確かに、古い黒と、新しい黒が混ざっていた。新しい黒はわずかに濡れを含み、紙の繊維の上に薄く乗っている。古い黒は沈んでいる。薄鼓を雲母の上からそっと当て、紙の下を聴く。皮の下に、かすかな文の層があった。
……第七塔 吐二拍 補綴……
……薬房南 逆流 水受……
読み取りながら、ある行で音が途切れた。目の前の文字は「院中骨路 連絡す」。薄鼓の下の文は、同じ行で沈黙している。そこだけ、紙の繊維がわずかに厚い。上書きの跡だ。
セラが囁く。「誰かが『連絡す』を後から書き足した可能性」
「連絡先、消されてる」リナが雲母の縁で紙をそっと押す。「この列、繊維の向きが逆。ここ、貼り替え」
貼り替え。俺は紋刃の背で紙面を撫で、律環に合わせて呼吸を刻んだ。吸・止・吐・止。止の暗がりで力を引き、吐でごく小さく線を起こす。紙を裂くのではない。糊の層をほぐして、上塗りの皮膜だけをめくる。
「待て」
背後で声がした。白衣の影が棚の間に立つ。詠唱至上派の講師、ハルメスだった。冷たい目でこちらを見下ろす。
「古記録は骨である。骨を削るは、罪に近い」
セラが一歩前に出る。「削っていないわ。貼られた膜を剥がしているだけ。上塗りの履歴を確かめるのは検分の仕事」
「検分は骨の上で行え」ハルメスの声は乾いている。「橋の者が骨へ窓を開け、勝手に繕うなど、まかりならぬ」
言葉尻は刺さるが、退けとは言わなかった。つまり、見ている。俺たちの手元が「折らない」かどうか。
呼吸を浅く整え、糊の層に小さく条件を置く――「ほどけ。紙は折れず」。律環が半拍遅れて脈を返し、指先の力が細くなる。紙の端がわずかに浮き、薄い膜がめくれた。下から現れたのは、細い線と小さな印。
……院中骨路 ――鐘無地下、静室―― 連絡す。
印は橋型ではなかった。丸い輪に短い線が刺さる――あの静室で見た、骨守の印だ。
ハルメスの目が細くなった。「それは……」
「これは記録です。あなた方が嫌う異端の文ではない」セラが静かに言う。「骨の借りを『人へ返す』側の記号。骨守の印よ」
ハルメスは口を閉じた。少しの間。やがて、ひとつ溜息を吐く。「……禁書庫の鍵を持ってこよう。見る責任がある」
硬い踵の音が去る。リナが息を吐き、苦笑いした。「意外と、話が通じる」
「骨を折りたくない気持ちは、同じなのかもしれない」俺はめくった膜を小さく折り、元の位置に差し戻した。「折らずに見る。それが今日の橋だ」
禁書庫の扉は厚く、封蝋がいくつも連なっていた。ハルメスが鍵束を差し入れ、蝋に刻まれた印に灯を当てる。色は三つ。深青、銀、そして黒。深青は詠唱至上派。銀は工房――符文実証派。黒は……。
「神殿」セラが低く言う。「骨守の封」
「封蝋は開けない」ハルメスは頷いた。「だが、外側の索引なら見せられる」
索引は薄い板に刻まれていた。項目の端に小さく年が記され、横に符号が浮かぶ。指先で追っていくうちに、空白が現れた。年表の列が一本、丸ごと抜け落ちている。三十二年前から二十七年前まで、五年分の索引がない。
「空白だ」リナの声が低くなる。「橋縫いの記録も、この五年に集中して……ない」
薄鼓を索引板の裏に当てる。静かだ。板は喋らない。だが、封蝋の黒が、灯の熱でわずかに柔らかくなっていた。触れない。呼ぶな。数え、分けろ。
ハルメスがこちらを見ずに言った。「その五年、王都は疫と戦だった。骨の記録は祈りに沈み、橋の記録は……焼けた」
「焼けた?」セラが眉を寄せる。
「敵の火だ。骨を折らぬために、橋を焼くことがある。逆も、ある」
胸の奥で、碑の文がきしんだ。骨と橋を争わせるな。借りは数え、返せ。焼くことは、数と反する。
「索引で足りないものは、地図で拾うしかない」俺は別の棚から骨路図を引き出した。紙の端に、骨路が灰色の線で描かれ、所々に小さな輪がある。塔、薬房、工房、静室――連絡の節だ。その節の間を結ぶ細い斜線が、ところどころで切れている。
「ここだ」リナが指先でなぞる。「第七塔の下から、神殿の静室へ斜めに伸びる細線。途中で途切れている。切断の印」
薄鼓で紙の下を聴く。紙が唸り、石のような低音が掌に落ちた。骨の線は喋らない。だが、切断の印の縁に、微かな擦れの音がある。誰かが、ここを何度も撫でた音だ。橋縫いの指か、骨守の指か。
セラが目だけで合図を送る。俺は律環に触れ、短いほうを軽く叩いた。即応の遅延。紙の端に「見よ、折るな」の条件を置く。リナが雲母を添え、薄鼓が小さく震えた。紙の上をそっと滑らせると、切断の印の脇に、ごく小さな点が浮いた。肉眼では見えない。だが、皮は、点の存在をはっきり覚える。
「印の……裏印」リナが囁いた。「骨路が切れたときにだけ押す、臨時の合図。再接続の手順が別の紙にあるって印」
「別の紙は、どこに」
ハルメスが静かに返す。「禁書庫の向こうだ」
沈黙が落ちる。扉の向こう側に、黒い封蝋がいる。呼ぶな。骨を折る。――なら、どうする。
セラが短く言った。「今日は扉を開けない。索引と地図で『どこへ行けばよいか』だけ拾う。扉は告解司と一緒に。神殿の側から封を扱う」
ハルメスの目がわずかに和らいだ。折らない選択だ。彼は鍵束を戻し、扉を押さえたまま、こちらに顔を向ける。
「異端者。――お前は橋を架けるとき、骨を折らぬと誓えるか」
「誓えるように、数えます」口にしてみると、言葉の重さが腹に落ちた。「借りを。返す先を。逃がし口を」
ハルメスは頷きもしないで去った。
記録庫の空気がまた紙の匂いに戻る。俺たちは骨路図の端に細い糸のような印を付け、切断箇所の近くにあるもう一つの節を探した。塔の西。工房棟の下――そして、下水路へ降りる古い石の階段に赤い印がついている。「臨時封鎖」。五年前の印だ。
「水路紋」セラの声が低くなる。「橋縫いは、地図を水の上にも引いた」
「水音、聞こえる?」リナが薄鼓を胸に当てる。掌の下で、遠くの水が繰り返し打つ。規則性がない。雨ではない。どこかで、詰まりが生きている。
帳簿を開く。今日の数字を少しだけ前倒しに見積もる。
受け取り:風+0.3/水+0.2
支払い:身体−0.2(遅延・三分け)+道具−0.1(雲母・銀糸の損耗)
安全率:1.08(推定)
「午後、工房で水路用の律環を作る。受けは水。逃がし口は土と床」リナが工具袋を締める。「骨は……水路にもある?」
「ある。水路紋は歌う」セラが短く笑った。「だから、止めが難しい」
記録庫を出ると、石の床がわずかに冷たかった。回廊の端、シグルドが背を壁につけ、腕を組んでいた。視線は俺たちの手元――骨路図の切断印に落ちる。
「禁書庫の扉は開かなかったか」
「開けないと決めた」セラが答える。「骨守の側の封蝋がある。扉は神殿から扱う」
「賢明だ」シグルドはわずかに頷く。「骨は折るより、冷ますほうが難しい」
彼は歩き出しかけて、足を止めた。「明日、雨になる。水路が鳴く」
「韻律の骨で止められる?」俺が問うと、シグルドは目だけ笑った。
「止めるのは、お前の橋だろう」
言い捨てて去っていく背を見送り、俺は骨路図を巻き直した。雨。水路。臨時封鎖の印。五年の空白。封蝋の黒。――どれも、同じ頁に指を置いている。
午後の工房は音が多い。雲母を切る音、銀糸を撚る音、符粉のさざめき。リナが水受け用の小さな板を並べ、律環に薄い青の符を縫い込む。短律環の遅延幅を狭く、長律環の保持を深くする。土返しの配分を少し増やす。支払いは三人で分ける。
「三人の呼吸、合わせよう」リナが言った。セラが頷き、手首の律環に指をかける。吸・止・吐・止。拍の合間に、わずかな間が生まれる。
外で、風が湿る。遠くで雷の低い音が鳴った気がした。夜の手前、骨路図の切断印に、落ちた水滴がじみを作る。紙は泣かない。代わりに、床の下で水が鳴く。
明日、下へ降りる。臨時封鎖の階段へ。骨を折らず、橋を架けるために。
――水の底から、短く、助けを呼ぶ音がした。
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