第5話 骨の文を読む夜



 魔灯を落としても、搬気紋の壁は暗くならなかった。石の中に細い光が残っている。薄鼓を雲母板越しにそっと押し当てると、皮の下で骨が鳴るみたいに、低い文が掌へ沁みた。


……骨は路なり、橋は渡なり。

祈りは骨を育て、理は橋を架ける。

いずれも欠ければ塔は倒る。

汝、名を錬理術師と記すならば、骨を折るなかれ。

借りを数えよ。払えぬ橋は、渡るに足らず。


 最後の一行が胸の内側で金属音になって残った。借り――支払いのことだ。俺は無意識に手首の律環を叩いていた。半拍遅れて脈が返り、指先に余白が落ちる。


「拾えた分は写しておく」セラがささやく。「誰かが転記した痕は、塔だけじゃない。術院のあちこちにあるはず」


 リナが雲母板を持ち替え、もう一度、第五詩肋の陰を撫でた。「ここ、薄い継ぎ。ずっと昔の……転生者か、術院の誰か」


「――記す。明日、確かめる」俺は頷く。声が自分のものじゃないみたいに静かだった。


 魔灯を消す直前、壁の向こうで風が短く息をした。塔は呼吸している。誰のために、だろう。


     ◇


 朝。寮の窓から見る塔は、風見をゆっくりと回していた。机に帳簿を広げ、律環の効果を昨夜の分まで反映する。


受け取り:風+0.6/熱+0.4

支払い:身体−0.4(律環遅延−0.3/床逃がし−0.2)

安全率:0.96 → 1.03(暫定)


 黒字の数字が小さいのに、肩の力が抜けた。凡人の帳簿は、道具と友でしか肥えない。


 工房に寄ると、リナがすでに工具を広げていた。雲母の薄板を三枚重ね、銀糸を二重に巡らせた第二律環が机の上で光る。


「利き手じゃないほうにも」

「支払いの逃がし口を増やすのは助かる」俺は手首にはめる。冷えが皮膚に沈み、心臓から半拍遅れて二度、脈が返る。「……遅延の幅が違う?」

「片手は短、片手は長。短いほうは反射的な支払い、長いほうは止めや継ぎの作業用。――午後、初等塔の送風室で校正するよ」


 ちょうどそこへ、セラが駆け込んできた。外套の裾に朝露が散る。「急ぎ。薬房から逆流の報せ。こちらに搬気を返しはじめた。――走る!」


     ◇


 薬房は術院の南翼にあった。瓶と薬草の匂い、蒸留器の低いうなり。だが、今は違う。鼻を刺す苦い酸の匂いが廊下にまで流れ、床にうっすら白い霧が這っている。


「逆流が始まって五分」薬房主任が青い顔で言う。「搬気孔が一部、閉じない」


 壁の呼吸孔に顔を寄せる。薄い膜が呼気を押し返し、孔の縁に灰色の静塵が糊のように貼りついている。搬気紋の第三詩肋が鈍い。

 そこへ詠唱至上派の一団が雪崩れ込み、先頭のシグルドが状況を一瞥した。「十二詩肋の五を強め、三を補助。――合唱、準備」


「待って。止めの経路がない」セラが遮った。「韻律で押し出すなら、吐くときの暗がりを確保しないと、酸が塔へ上がる」


「ならば押し切る」シグルドの声は迷いがない。「骨に止めは組み込まれている」


 針が刻む圧がじりじりと上がる。喉の奥が焼ける。俺は手首の律環に指をかけ、短いほうに意識を落とした。即応の遅延。

「逃がし口を二つ。床と……水」

 リナが即座に頷き、作業台の下から雲母槽を引き出す。「冷性符粉で受けを立てる。酸はここへ」


 俺は搬気紋の縁に小さな縫いを起こす。二拍の呼吸律を差し込み、吐の暗がりへ圧を落とす道を作る。短律環で即応、長律環で保持。

「余圧は地へ。酸は水へ。風は昇り、止めるとき二拍で吐く」


 見えない糸が呼吸孔と雲母槽を結び、床の符盤へ誘う。毒の霧がわずかに引き、鼻の奥の痛みが薄らいだ。


 そのとき、斜め後ろでがらん、と音がして、誰かが倒れ込んだ。薬房の助手だ。口元が白く、呼吸が浅い。

 ――支払いが足りない。

 身体の帳簿が赤に触れたのを、律環が遅らせてくれている。だが、遅らせただけだ。払う先が必要だ。


「俺が払う」思わず口に出ていた。

 セラが素早く肩を支える。「貸す。……返すこと」

 彼女の指先が俺の長律環に触れ、別の逃がし口へ薄い線が延びた。彼女の帳簿に、俺の支払いの一部が移る。

「分け前だ」

 返す、と答える前に、喉に冷たい水が落ちたみたいに楽になった。


 詠唱が最高潮に達する。シグルドの主声が響きを支え、五と三の詩肋が明るく光る。俺は吐の暗がりを二拍だけ深くし、雲母槽の受けをわずかに開いた。

 針が跳ねて――落ちる。

 霧が薄れ、薬房の空気がゆっくり透明に戻っていった。


 主任が壁に手を突いたまま、深く息を吐いた。「……助かった」

 シグルドは合唱を解きながら、こちらを一度だけ見た。瞳は射るように明るい。

「韻律は進め、異端は止めた。――今日は共同の功だ」


 言い方は刺だらけだが、否定ではない。セラが軽く頷いた。「借りは書いておきます。――返すこと」


     ◇


 薬房の片付けが一段落したころ、リナが床の隅を見て硬直した。

「アルディス、これ」

 石床に、薄い線が一本。搬気紋の外側。誰かが爪で引いたみたいな浅い刻み。雲母板で擦ると、微かな文が浮いた。


……転記……第三詩肋……吐二拍……


 古い。塔の壁にあったものよりも、もっと擦り切れている。

 リナが囁く。「薬房にも継ぎがあった。ずっと昔から――誰かが、止めの橋を知っていた」


 セラが視線だけで周囲を見回し、声を落とした。「大きな声では言えない。記す。少人数で確かめる」


 そのとき、廊下の向こうから杖の音がした。オルド院長が現れ、薬房の空気を一巡させてから、短く頷く。

「よい。――塔に続き、薬房も動いた。今日の記録は共同の功。詠唱至上派、符文実証派、錬理」

 杖先が床を軽く叩く。「三十日後の公開討議は予定どおり。議題は骨と橋。本日の止めの挿入位置と遅延幅を、学派ごとに解釈せよ。……それと」

 院長の目が俺に向く。「借りを数えよ。返せ。友にも、自分にも」


 胸の奥で、碑の文と同じ音が鳴った。


     ◇


 夕暮れ、工房で律環の調律をする。リナが銀糸の経路を一筋だけ替え、雲母板の重ね方を逆にする。「短を少し伸ばして、長はわずかに浅くする。身体がもたない」


「……助かる」

「助けられてるのは、私のほう。現物に意味が乗るの、気持ちいいから」


 窓の外、塔の風見はもう滑らかに回っていた。日が落ちると、工房の火だけが赤く残る。


「夜、塔の第五詩肋をもう一度」セラが言う。「転記の痕を追う。術院の骨が、いつからこうなったのか」

「行く。――骨を折らずに、橋を架ける方法を、記す」


 言葉にすると、腹の底に重さが落ちた。凡人の脚は一本。だが、道具が二本目を、友が三本目を作ってくれる。前に倒れるなら、一歩に換えられる。


     ◇


 寮へ戻るアーチの下、月が丸かった。影が動いて、銀髪が光を掬う。シグルドだ。

「薬房、止めは良かった」

 珍しく、棘のない声だった。

「韻律だけでは、吐の暗がりを見誤ることがある。――骨にも橋にも、欠けはあるらしい」


「欠けがあるなら、継ぐだけだ」

 自分でも驚くほど、声は静かだった。

「公開討議の日、骨の強みを見せてくれ。俺は橋の支払いを黒字にしていく」


 シグルドは短く笑い、背を向けた。「楽しみにしている、錬理術師」


 彼が去ると、夜がほんの少しだけ深くなった。手首の律環が、半拍遅れて脈を返す。遅延。支払いは、走りながらでも数えられる。


 部屋に戻り、帳簿の余白に一行を書き足す。


骨は路。橋は渡。――折らず、渡る。


 筆を置くと、世界の縫い目がかすかに鳴った。明日は塔の第五詩肋へ。誰かの足跡を辿る。

 借りを数え、返す方法を錬り、縫い、記すために。


(つづく)

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