第3話 白紙生の誓い

 封印から一週間後、筆京学園の入学式が行われた。

朝から悠真は落ち着かなかった。制服の袖口を何度も引っ張り、左手首の環が見えないか確認する。黒い環は相変わらず脈打ち、自分の心臓とはわずかにずれたリズムを刻み続けている。

母が玄関先で悠真の制服を整えながら、小さく微笑んだ。


「お父さんの時も、入学式は緊張したって言ってたわ」

「……そうなの?」

「ええ。でも、堂々としてなさいって。あなたは合格したんだから」


母の言葉に頷き、悠真は家を出た。

電車の中で、同じ制服を着た新入生たちと乗り合わせる。みな興奮と緊張で頬を紅潮させている。ある者は友人と談笑し、ある者は窓の外を見つめている。

だが、悠真の左手首に視線が向くと——露骨に距離を取られた。

(もう、噂は広まってるのか……)

封印された新入生。試験で暴発を起こした危険な生徒。

そんなレッテルが、すでに貼られているのだろう。


 筆京学園の大講堂は圧巻だった。

天井は高く、壁には歴代の師範たちが書いた書が額装されている。「誠」「志」「剛」——力強い文字が、新入生たちを見下ろしていた。

三百名の新入生は、階級ごとに座席が分けられていた。

最前列には、試験で優秀な成績を収めた準師範候補たち。制服の襟には銀の徽章が光っている。

その後ろには、一般合格者たち。書の力を発現させた者たちで、ここから準師範を目指す。

そして最後列——。

白紙生の席。

力の発現が認められなかった者、または悠真のように特殊な事情を抱える者たちが座る場所。ここから準師範に昇格するのは、至難の業だと言われている。

悠真は最後列の端に座った。隣には、やはり白紙生の少女が俯いて座っている。

(ここが、俺の立ち位置か……)

前方には、輝かしい才能を持つ者たちがいる。後方には、まだ這い上がることすらできていない自分がいる。

その距離が、残酷なほど遠く感じられた。


 静寂が訪れた。

壇上に、一人の老人が現れた。

小柄で、白髪を後ろで結んでいる。だがその一歩が、会場の空気を一変させた。重圧。威厳。そして、計り知れない力の気配。

筆京学園学園長——墨守院厳冬。

かつて、最強の書士と呼ばれた男。


「新入生諸君、入学おめでとう」


静かな声だが、講堂の隅々まで届く。


「だが、祝福はここまでだ」


会場がざわめいた。

学園長は淡々と続ける。


「ここから卒業できるのは、三分の一にすぎない。三分の二は、途中で脱落する。才能がないと諦める者。恐怖に負ける者。あるいは、墨妖に命を奪われる者」

悠真の背筋が凍った。

墨妖に、命を奪われる——。


「だが、恐れるな」


学園長の声が、わずかに温かみを帯びた。


「白紙生から始まり、準師範、師範格に至った者は少数ながら確かに存在する。道はある。ただし——」


間。


「その道は、険しい」


重い言葉が、悠真の胸に突き刺さる。

学園長は壇上から新入生たちを見渡した。その視線が、一瞬だけ悠真に留まった気がした。


「もう一つ、言っておく」


学園長の表情が、わずかに厳しくなる。


「昨今、『言霊』などという古い迷信を持ち出す者がいる。言葉に力が宿る、声で書を操る——馬鹿げた話だ」


悠真の胸が跳ねた。

言霊。

祖父が時折口にした言葉。そして、試験の暴発の時、自分が無意識に呟いた何か——。


「我々が向き合うべきは『書』だけだ。筆と墨と紙。それが全てだ。迷信に惑わされず、正面から技を磨け」


学園長はそう言い切り、壇上を降りた。

前列から、小さな笑い声が漏れた。


「言霊だって。時代錯誤もいいとこ」

「おとぎ話じゃないんだから」


悠真は拳を握りしめた。

袖の下で、封印の環がぴくりと反応した。まるで、学園長の言葉に反発するかのように。


 式が終わり、新入生たちが廊下へと流れ出す。

悠真も席を立とうとした時、背後から声がした。


「朽木」


振り返ると、氷室先輩が立っていた。

いつの間に講堂に入っていたのか。白い制服が、周囲の喧騒の中で際立っている。


「……先輩」

「少し、話がある」


氷室先輩は廊下の隅へと歩き、悠真もそれに従った。

人波が過ぎ去り、二人だけの空間ができる。

氷室先輩は真っ直ぐに悠真を見据えた。


「お前の筆が震えなくなる日を——俺は待っている」

「え……?」

「ただの震えじゃない」


氷室先輩の瞳が、鋭く光る。


「あの暴発の時、聞こえたんだ。墨の奥で、何か異質な『響き』が」


悠真の心臓が早鐘を打つ。


「響き……?」

「言葉だ。お前、何か呟いただろう」


息が詰まった。

あの時——試験で筆を握る直前、確かに何か呟いた。

『この震えさえなければ』

だがそれは、ただの独り言のはずだった。


「俺には聞こえた。墨が反応した瞬間、お前の声が」


氷室先輩は一歩近づく。


「学園長は言霊を否定した。だが、俺は知っている。言霊は実在する」

「なんで……先輩がそんなことを……」

「理由は言わない。だが一つだけ忠告しておく」


氷室先輩の声が、さらに低くなる。


「その力、安易に使うな。言霊は書以上に制御が難しい。下手をすれば、お前自身が飲まれる」


それだけ言って、氷室先輩は背を向けた。


「封印が解けた時、また会おう」


真っ直ぐに立ち去る背中。その姿に、迷いはなかった。

悠真は一人、立ち尽くした。

言霊。響き。声。

自分の中に、何かが眠っているのか?


「悠真ー!」


明るい声に振り返ると、杉浦が手を振りながら走ってきた。


「探したぜ! 同じクラスだって! 1年B組!」

「……そうなのか」

「おう! 一緒に頑張ろうぜ!」


杉浦の笑顔に、悠真の緊張が少しほぐれた。


「なあ、学園長の話、どう思った?」

「うーん、厳しいこと言ってたけど、まあ当然だよな。書士って命がけの仕事だし」


杉浦は軽く肩をすくめた。


「でもさ、『道はある』って言ってくれたのは嬉しかったぜ。俺らみたいな白紙生でも、チャンスはあるってことだろ?」

「……ああ」

「よっしゃ! じゃあ教室行こうぜ!」


杉浦が悠真の腕を引っ張る。

廊下を歩きながら、悠真は周囲の視線を感じた。封印の環に向けられる好奇の目。恐怖の目。軽蔑の目。

だが、杉浦は気にした様子もなく、大声で笑いながら歩いている。

(こいつ……本当に、何も気にしてないのか……?)

それとも、気づいていても、あえて無視しているのか。

どちらにせよ、杉浦がいてくれることが、今の悠真には救いだった。


 教室に入ると、すでに十数名の生徒が席についていた。

悠真と杉浦が入ると、一斉に視線が集まる。


「封印のやつだ」

「試験で暴発したらしいぞ」

「危なくないのか……?」


ひそひそ声が波紋のように広がる。

杉浦は気にせず、窓際の席に座った。


「悠真、ここ空いてるぜ!」


悠真はその隣に座る。

すると、前の席の少女が振り返った。長い黒髪に、真面目そうな眼鏡。


「あの……朽木君、だよね」

「……ああ」

「私、藤間美咲。よろしく」


差し出された手に、悠真は戸惑いながら握手を返す。


「試験、大変だったんだってね。でも、合格できて良かった」


その言葉に、悠真は少し驚いた。

封印されたことを知っていながら、普通に話しかけてくる。


「……ありがとう」

「私も白紙生だから、一緒に頑張ろうね」


藤間さんは微笑んで、前を向いた。

杉浦がニヤニヤしながら囁く。


「おー、良かったじゃん。味方増えたぜ」

「……そうだな」


窓の外では、桜が満開だった。

白紙生としてのスタート。

厳しい現実。

だが——。

(俺は、ここから這い上がる)

悠真は左手首の環に触れた。

封印は、いつか必ず解く。

そして、この震える筆で——。


 放課後、悠真は一人で校舎を歩いていた。

廊下の奥に、古い額装が飾られている一角がある。

歴代の優秀な生徒たちが書いた作品。その中に、一枚だけ異様な存在感を放つ書があった。

二文字。

墨痕は荒々しく、まるで暴風のよう。だが同時に、底知れない力を感じさせる。

額の下には、小さな銘板。

『氷室 鏡華』

(氷室……先輩と同じ名字……)

その時、背後から声がした。


「俺の姉だ」


振り返ると、氷室先輩が立っていた。


「姉……?」

「五年前に卒業した。天才と呼ばれた書士だった」


氷室先輩の表情は、いつもより硬い。


「だった……?」

「今は、行方不明だ」


悠真は息を呑んだ。


「任務中に消息を絶った。遺体も、痕跡も見つかっていない」


氷室先輩は額を見上げる。


「姉は言霊の使い手だった。学園では禁じられていたが、独自に研究していた。そして——」


言葉が途切れる。


「消えた」


沈黙。

やがて氷室先輩は、悠真を見た。


「お前の中に、姉と同じ『響き』を感じる。だから、俺は見ている。お前がどうなるのか」


それだけ言って、氷室先輩は去っていった。

悠真は一人、額の前に立ち尽くした。

氷室鏡華——行方不明の天才書士。

言霊の使い手。

そして、自分と同じ『響き』を持っていた人物。

(俺は……一体……)

封印の環が、強く脈打った。

まるで、何かを訴えるように。


【第3話 了】

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