存在を喰うモノ

@m_m5

存在を喰うモノ

私の名前は藤原奈津子。ごく普通のOLだ。ただ一つ、私は、自分の顔に絶対の自信を持っていた。

 

 幼い頃から何度も言われてきた。「可愛いね」「目が大きいね」。その言葉は、いつの間にか私の支えであり、武器になっていた。

 高校卒業後、地元の化粧品店で働きながら、SNSに自撮り写真を上げ続ける。フォロワーは三千を超え、コメント欄は「いいね」と称賛で溢れる。

 だが最近、心の奥で微かな渇きが芽生えていた。もっと注目されたい。もっと、特別だと証明したい——。

 

 

そんなある日、SNSで流れてきた「某有名プロダクション・新人オーディション開催」という名の企画。

告知文には「あなたの顔が、スターの卵を産むかもしれません」「新しい才能を発掘します」という甘い言葉が並んでいた。私は、一番美しく撮れたと自負する渾身の一枚を添えて、軽い気持ちで応募してしまった。

送信完了の表示と同時に、スマホの画面が一瞬だけ暗転した。


 それが私の日常を悪夢に変える、第一歩になるとは知らずに……。


それから一週間。

カメラで撮った自撮りの顔が、どれも僅かに歪んで写るようになった。

光の加減だと自分に言い聞かせたが、鏡の中の顔とは違う……。

それでも気のせいだと笑い飛ばした。

 

数週間後、プロダクションからメールが届いた。心臓が高鳴るのを感じながら開くと、そこに書かれていたのは、ゾッとするような言葉だった。

「貴方が、イイ……とても……欲しい……ほしィ……キメタ」

差出人のない、不気味なメッセージ。その瞬間から、私の周りの世界は、まるで薄い膜が剥がれるように、少しずつ歪んでいった。


 夜、帰宅して鏡を覗くと、頬の線がわずかに削げて見えた。化粧を落としたせいだろうと、自分に言い聞かせる。しかし鏡の奥の私は、わずかに瞬きを遅らせていた。

「……」

ぞわりと背筋を這い上がる感覚に、私は鏡から目を逸らした。


 職場の同僚が、私の顔をまじまじと見つめて言った。「昨日、駅前ですれ違ったけど……挨拶、無視したよね」私は首を振った。「行ってないよ、昨日は直帰——」

 同僚は黙り込み、眉間に皺を寄せた。


最初は気のせいだと思った。疲れているせいだと。しかし、それは日に日に悪化していった。親友の沙織といつものカフェに行っても、店員は私の方を見ようともしない。会計の時も、沙織にだけ話しかけるのだ。

「奈津子、今日、なんかあった?」と心配そうな沙織の声が、遠くに聞こえるようだった。

 

実家に帰っても同じだった。両親は私の存在に気づかないことがある。食卓で隣に座っているのに、「あれ?奈津子、もう帰ったの?」と、まるでそこにいなかったかのように尋ねるのだ。

私は、まるで透明人間になったようだった。世界から忘れ去られようとしている恐怖が、じわじわと私を蝕んでいった。自分の存在が薄れていくにつれて、人に見られ、褒められることへの渇望は、ますます強くなっていった。


その頃から、毎晩のように奇妙な夢を見るようになった。白い霧のような人影が、夢の中に現れる。最初はぼんやりとしていたそれが、日を追うごとに、まるで生きている人間のように、私を追いかけるようになる。

かすかな音が聞こえ始めた。それは言葉というより、空気の震えのようなものだったが、次第に女の人の笑い声に変わっていく。楽しげに鼻歌を歌っているようにも聞こえた。最初はただ不気味に感じていたが、人影が次第に美しい女性の姿をかたちづくるにつれて、その笑い声は、私の耳元で囁かれる言葉へと変わっていった。「綺麗な眉、睫毛、すうと通った鼻筋、吸いつきたくなるような唇……」

そして、ある夜。「あと少し……ふふふ」その声を聞いた瞬間、私の全身に氷のような悪寒が走った。本能が、これはただの夢ではない、と告げていた。

 


現実世界での私の存在感は、ますます薄れていった。最近、認識されにくいと感じていたが、その頃から、さらに顕著になった。スマートフォンの顔認証は、何度試しても「認識できません」と冷たく告げる。まるで、そこに私という人間が存在しないかのようだった。

 

「このままじゃ、私はどうなってしまうの……?」

自分が自分ではなくなっていくような、そんな言いようのない恐怖に、私は毎晩押しつぶされそうになっていた。誰かに助けを求めたい。でも、誰に?そして、私という存在を、一体誰が認識してくれるのだろうか?

 

今日も会社に行った。自分のデスクに座っても、同僚たちは誰も私に気づかない。書類の山に埋もれて仕事をしていると、ふと、自分のマグカップではない、見慣れないコーヒーカップが置いてあることに気づいた。「あれ?誰かがここでコーヒーを飲んだのかな?」そして、ハッとした。ここは、本当に自分の席なのだろうか?

もう限界だった。何か悪いことをした覚えはない。ただ、少しだけ夢を見ただけなのに。

「誰か……私を見つけて……」

大勢の人が行き交う街中で、私は心の中で叫んだ。しかし、その声は誰にも届かない。


帰宅途中、駅前のガラス壁に映った自分を見て、足が止まる。映っていたのは、顔色の悪い私だった。

唇が動いている——だが、音はない。

耳を澄ますと、鼓膜の裏で湿った音がじわじわ広がっていく。

「……た」

「……もらうわ」

 声にならない声が、皮膚の下から這い上がってくるようだった。


満員電車に揺られ、力なく降りる。改札口を出ようとしたその時、背後から鋭い視線を感じた。振り返ると、険しい表情を浮かべた老婆が、私を睨みつけていた。

「あんた、一体何をやったんだい。魂が、半分以上持ってかれとる。その背中に背負っとるもんは、なんだ?どこに行った?」

老婆は強い力で私の腕を掴むと、有無を言わさずタクシーに押し込んだ。向かった先は、古びた寺だった。



本堂に連れて行かれた私は、老婆――静と名乗るその女性――に促され、座布団に腰を下ろした。タクシーの運転手でさえ私の存在を認識していなかったと聞いて、改めて自分の置かれた異常な状況を思い知らされた。久しぶりに他人に認識された安堵感と、どうすることもできない恐怖で、私の目から涙が溢れ出した。

 

咳き込むようにして、私はこれまでの経緯を全て静に話した。ネットの企画に応募したこと、不気味な返信、徐々に薄れていく存在感、そして毎晩見る悪夢。

静さんは何も言わず、ただ静かに私の話に耳を傾けていた。全てを聞き終えると、深くため息をつき、低い声で呟いた。「鬼かぁ……」

「鬼……、ですか?そんなものが本当にいるんですか?」私は半信半疑で尋ねた。

 

私の言葉に、静さんはゆっくりと頷いた。「時代と共に姿を変えるのが鬼だよ。昔は疫病や飢饉、人々の恐れや憎しみが生み出したものが形を変えて現れる。そして、現代においては、あんたが応募したような虚像の世界で生まれる。美しいものへの羨望や、誰かを蹴落とそうとする憎悪。その念が、電子機器を通じてあんたに取り憑いたんだ。お前が持つ、人一倍の顔への自信と、人から見られたいという承認欲求。鬼は、そこに付け込んだんだよ。」

そして、その鬼は私の姿を乗っ取ろうとしているのだと。もし完全に乗っ取られてしまえば、鬼は強大な力を持つ鬼神となり、この世に災いをもたらすだろう、と。

「どうすれば……どうすればいいんですか!」私は懇願した。

 

静さんは厳しい表情で言った。「正直、もう手遅れかもしれん。だが、まだ完全に魂を奪われたわけじゃない。わずかな望みはある。だが、それは厳しい戦いになるだろう。それでも、やるかい?」

私の目から再び涙が溢れた。まだ、助かる可能性がある。その言葉が、干からびかけていた私の心に、かすかな希望の光を灯した。

「お願いします!助けてください!」

静さんはかすかに微笑み、「よし」と頷いた。その表情は、どこか遠い昔を思い出すように、一瞬だけ翳りを見せた。そして、再び私を見つめたその目は、強い光を宿していた。

「わしは昔、鬼に妹を奪われた。もう、あんな悲劇を繰り返すわけにはいかん。これが、わしの人生最後の人助けになるかもしれんの」




そこから、私は静さんの指示に従い、体を清め、白い袴に着替えた。本堂には、静さんが手際よく何枚ものお札を貼り付けていく。

「これから、鬼をあんたの体から引き剥がす。そのために、まずこやつをこの部屋に近づけないようにする。決して声を出してはならん。ここにいることを気づかれてはならん。向こうは、ここでお前さんの気配が途絶えておるのに気付いておる。つまり、この敷地内のどこかにお前さんがいるのはわかっておるからの。あらゆる手で、お前さんの居場所を突き止めようとするだろうが、絶対に声を、音を立てるな」

静さんはそう言い残し、「ワシは朝までこの部屋に来ることはない。お前さんはここで、朝まで耐えろ」と言って、本堂を後にした。


静さんが部屋を出て行った途端、張り詰めた静寂が私を包んだ。心臓の音が、耳に痛いほど響く。不安に押しつぶされそうになりながら、私は言われた通り、息を潜めて座っていた。

どれくらいの時間が経っただろうか。遠くから、何かを引きずるような、低い音が聞こえ始めた。体の奥底から、生臭い血のような匂いが立ち上るような気がした。私は体を硬くした。

 

やがて、その音は寺の入り口の方へと近づいていくのがわかった。そして、ついに、私のいる本堂の前の襖が、ゆっくりと、しかし確実にノックされた。

コン、コン、コン……

静かで、しかし、どこか不気味な三回のノック。私は息を止めたまま、動くことすらできなかった。


襖が揺れ、私の声と同じ声が外から響いた。

「奈津子……助けて」

震えた。返事をしそうになった瞬間、声は笑い声に変わった。私の声で、私を嘲笑う。

 

「……奈津子……いるんでしょう?」

 

低い、女の声が襖の向こうから聞こえた。それは夢の中で聞いた、あの声だった。背筋に氷が走る。

「ふふ……ミツケたよ……」

再び、かすかな笑い声が聞こえた。それは先日の夢で聞いた、楽しげな鼻歌を歌う声ではなかった。もっと粘りつくような、獲物を追い詰めた猟犬のような、ぞっとする笑い声だった。

 

襖が、ギィ、と小さく音を立てた。その隙間から、わずかに赤い瞳が見えた気がした。私は恐怖で目を閉じ、全身を震わせた。

「ニがさない……絶対に……」

すぐそこで囁かれた言葉に、私は悲鳴を上げそうになるのを必死で堪えた。襖を叩く音、引っ掻くような音、そしてあの不気味な笑い声が、夜の静寂の中に響き渡る。


襖を触ると、まるで人の肌のように温かい気がした。

「デておいで……もう、オワわりだよ……ふふふ……」

声は幾度となく繰り返され、その度に私の恐怖は増していく。まるで、襖の向こうにいる何かが、私の心の奥底を見透かしているようだった。

その音と声が、突然、ぴたりと止んだ。張り詰めた静寂が戻り、私は息を殺して耳を澄ます。


あれから、もうどれくらい経っただろうか。時間感覚が薄れていく。

そのとき、襖の向こうから、優しい、しかし微かに震える老婆の声が聞こえてきた。

「奈津子さん……奈津子さん、ワシだよ」

静さんの声だった。

「ワシは、朝までここには来ないと言ったが……どうにも、嫌な気配がする。あんたが心配で……」

それは、鬼が私を安心させようと、襖を開けさせようとしているのだと分かっていた。しかし、その声はあまりに静さんに似ていて、一瞬、本当に静が戻ってきたのかと錯覚しそうになった。

「今は大丈夫じゃ、札が効いてる。すまんが、ちょっとだけ、開けておくれ、夜食を持って来たから、手が塞がって開けれんのじゃ」

私は目を固く閉じ、必死に首を横に振った。違う、これは静さんじゃない。静さんは、絶対に私に音を立てるなと言った。決して動くなと言った。

すると、声のトーンが変わり、さっきまで優しかったはずの声が、次第にねっとりと、粘りつくように不気味な響きを帯びていく。

「…ふふ、ふふふ、ばぁか。ワシがあんたを守ってやるとでも思ったのかい。ワシはとっくに、あんたを捨てたさね。もう助けなんて来やしないんだよ……」

襖を叩く音が、狂ったかのように再び始まった。今度は、私の名を呼ぶ悲痛な声が混じる。

「奈津子!奈津子!助けて!怖い!怖いんだよ、ナツコォーー!」

それは、子供の泣き声のようにも、どこか遠くで苦しんでいる女の人の声のようにも聞こえた。鬼は、私の心を揺さぶり、音を出させようと、あらゆる手で迫ってくる。


朝になるまでの間、襖の向こうからの攻撃は続いた。しかし、静さんの貼ったお札が効いているのか、ついに襖が開かれることはなかった。夜が明け、静さんが本堂に戻ってきた時、私は憔悴しきっていた。

「よく耐えたな」静さんは労わるように言った。「しかし、今宵の晩が、本当の勝負だ」

そして静さんは、昨日はいなかった、山伏のような格好をした男――源を私に紹介した。


年齢は静さんより少し若く60代前後で、その出立は、身長175cm程で、法衣がまるで鎧のように、その身体を包み込んでいた。微動だにしない立ち姿は、誰も逆らえぬ力を秘めている。まるで、岩のようにその場に根を張っているかのようだ。

黒ずんだ法衣は所々ほつれ、背には長い錫杖。白い頭巾の奥から、鷹のような鋭い眼がこちらを射抜く。源は私を見て、軽く頭を下げたが、口を開かなかった。代わりに、懐から小さな数珠を取り出し、指先で素早く撫でる。その動きは、まるで百回以上繰り返された儀式のように無駄がなかった。


「こやつとは、兄弟弟子でな。山伏として同じ師の下で修行を積んだ。怨霊退治の腕も確かじゃ。……それでも、今夜の相手は手強いぞ」

 

「今宵は、ワシと源とで、あんたを守り抜く。だが、相手はもう鬼神になりかけとる。もし、どうしようもなくなった場合は、このお札を持って、なるべく音を立てずにここを出て、ワシが師事しておった高僧の元へ行け」



再び、勝負の夜が訪れた。

その瞬間から、寺全体が昨夜以上に軋み、常ならぬ声や音が這い寄ってくる。


静と源が唱えるお経の声が、夜の闇に響き渡る。私はただひたすら、言われた通りに耐え忍んだ。

しかし、その夜の鬼は、昨夜とは比べ物にならないほど強力だった。

 

最初は遠くで揺れる気配だけだったものが、やがて本堂のすぐ外から、獣のような、しかし粘りつくような臭いが漂い始めた。人とも、獣とも言えない奇妙な声が、私の周りの壁という壁から聞こえてくる。寺の建物全体が、まるで生き物のように、激しく揺れ始めた。

静と源の読経の声が、かき消されそうになる。

「グアァァァァ……!!」

戸が壊れそうなほど、ガタガタと激しく揺れる。その度に、私の体は恐怖で震え上がった。

 

「源!ここが踏ん張りどころじゃ!力を込めい!」

 

静さんの怒声が、唸り声と建物の軋む音を打ち破る。源もまた、静さんに負けじと、さらに声を張り上げて読経を続けた。二人の声が重なり、一つの強大な力となって、鬼の猛攻に対抗しているようだった。

そして、長い時間が経ったかのように思われたその瞬間、二人の全身全霊の読経が最高潮に達し、力強い「喝!」という怒声と共に、部屋を満たした。

 

その瞬間、全ての音が止んだ。激しく揺れていた建物も、ぴたりと静止する。・・・静寂の中、私は安堵で、思わず「あ……」と声を漏らしてしまった。

「声を出すな!」

静さんの怒号が、私の体を貫いた。

しかし、もう遅かった。

「……ミツケタ」

襖の向こうから、冷たい、震えるような一言が聞こえた。

襖が内側から、まるで何かに突き破られるように膨らみ、破れんばかりに揺れる。そこにできたわずかな隙間から、鬼の顔が見えた。それは、私の顔に酷似しながらも、血走った目と、裂けた口から鋭い牙を覗かせた、おぞましい形相だった。

鬼は、私の首元目掛けて、その細く長い腕を伸ばしてきた。

「奈津子さん!」

静が、私を突き飛ばした。私は畳の上に転がり、間一髪で難を逃れた。

その間に、源が「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前!」と力強く呪文を唱えながら、鬼に向かって、お経と共に錫杖を振り下ろす。光の柱が立ち、轟音と共に、鬼の姿は白い霧となって霧散した。

やがて夜が明け、静さんが私に向かって言った。「なんとかなったようじゃな……もう、大丈夫だろう」

私は何度も頭を下げ、感謝の言葉を述べ、寺を後にした。


街の喧騒が、久しぶりに心地よく感じられた。自分の存在が、確かにここに戻ってきたのだ。スマホの顔認証も、一度で認識された。

私の日常が、返ってきたんだ……と。

 

半年後、私の携帯が鳴った。電話の相手は、あの山伏の源だった。知らせの内容は、私の心を深く抉るものだった。あの時、命がけで私を助けてくれた静さんが、祓いの儀式から一週間と持たずに亡くなったという。静さんは私の連絡先を聞いていなかったため、源が探し出すのに苦労したらしい。

「最後の人助けだ」

静さんの最期の言葉が、私の脳裏に鮮明に蘇った。感謝の念と、深い悲しみが、私の胸に押し寄せた。

 

その夜、私は夢を見た。夢の中に、優しい笑顔の静さんが現れたのだ。夢だとわかっていても、私は嬉しくて駆け寄り、何度も礼を言おうとした。その時、静さんは両腕で私の肩を強く掴んだ。

そして、あの夜、襖の向こうで聞いた、粘りつくような声で言った。

「……やっと見つけた……。」


そして、あの夜、襖の向こうで聞いた、粘りつくような声に混じる、おぞましい笑い声が、私の鼓膜から脳を揺さぶる。その声だけが、私のこれからを物語るには、十分だった……。






あとがき


最後まで読んで頂きありがとうございます。

この作品が、私の初めての小説です。


皆さんの心と体を、ほんの少しでもゾクッとさせる(冷やす)ことができたら、私としてこれ以上嬉しいことはありません。


また次の恐怖を生み出そうと計画しているので、ぜひ温かい目で見守っていただけると幸いです。

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