キヅキの記録
東春樹
序「夢路の街」
小さい頃、不思議な夢をよく見ていた。
それは、巨大なキノコの森をウサギみたいに飛び
夢で見た内容は
その頃の私にとって、夢は家族に楽しんでもらうための、話題作りの道具に過ぎなかったのだと思う。だからある日、夢を見られなくなった時にも、特別悲しんだり、落ち込んだりせず、つまらないとしか感じていなかった。お母さんとお父さんに、どんなことを話せば喜んでもらえるだろうか。そればかりが、幼い私の頭の中を占めていた。でも、私が夢での出来事を話さなくなっても、お母さんとお父さんは気にした様子もなく、普段通りに接してくれた。その様子を見て、私は夢の話を置き去りにして、直ぐに他の話題を探し始めた。朝の賑わいが戻るころには、夢での出来事の大半を忘れてしまっていたけど、そんなこと気にもせず、お母さんとお父さんへ見せつけるように、無邪気に笑っていた。
ただ一つだけ、変わったことがあったとすれば、お父さんの仕事が忙しくなり、朝起きてもすでに仕事に出かけた後で、少しだけ
私は今、夢を見ている。
夢の私はあの頃よりも、心なしか目線が高く、夢にしてはやけに意識がハッキリとしていた。私の立っている場所は、巨大なキノコの森の中でも、海の底でも、まして私の知っている場所でもなかった。そこは、見渡す限りを霧に
少し歩けば、もと来た道すら見失いかねないほど濃い霧の中を、自分ですら
しばらくすると、目の前を覆っていた霧が徐々に晴れてゆき、同時に、私はゆっくりと歩き出していた。体の制御権は夢の私にあるらしく、歩みを止めようとしても、足は言うことを聞かなかった。ひたすらに前へと、体が動いていく。諦めて歩みの赴くままに身を委ね、そのまま様子を
霧はさらに晴れていく。そして、抜け切るほんの一瞬、
最初に映ったのは灰色に似た地面と空。次に黒い線と茶色の壁。完全に視界が戻った時に見えた風景は、どこか異国じみた街並みだった。灰色に見えた地面は、
動かせないながらも、目に映る情報を読み取ろうと集中していると、ゆっくりと視線が横へと流れていく。夢の中の私が――鏡がないから視点の持ち主が本当に私かどうかわからないけど――、また動き出した。今度は霧の中と違って、歩くスピードがどんどんと速くなっていく。走る速度にまで達したときには、視界に映る景色が一変していた。さっきまであったはずの煉瓦の家々は、瓦屋根の木造に。石畳の通りは、砂と砂利の混じった道に取って代わられていた。瓦屋根の軒先には大きな
視界の端に映る景色に目もくれず、走る速さはさらに上がっていく。速度が上がる度に、吐く息遣いも荒くなっていく。心臓が
いったいどれくらいの時間が経ったのかわからなくなってきた。現実の私だったらとっくの昔に体力が尽きていそうな距離を、未だに走り続けている。炙られる熱さにも、不愉快な心臓の痛みにも慣れ始め、今は視界に映る景色を呆然と眺めていた。西洋風の街並みから始まった景色は、瓦屋根の時代劇のような場所に移り変わり、その後も幾つかの街並みを経て、無機質なビル群とチューブ型の橋が架かる近未来風の街を通り過ぎようとしていた。
夢とも現実とも区別がつかない、いくつもの時代と世界を切り抜いて、
それでも次第に聞こえてくる息遣いが、段々と浅く不規則になってきた。目の前の景色にも
もう止まってしまいたい。
走りたくない。
そっちには行きたくない。
そう幻聴が
けれど、そんな願いも虚しくとうとう体は限界を迎え、力無く膝をつき、前のめりになりながら倒れ込んでしまった。吐き出す呼吸はとても苦しそうで、冷たい地面と接する体から、熱が少しずつ奪われていく。悲しくも痛くもないのに涙が溢れだしてくる。止まってはいけないのに、まだたどり着いていないのに。責める言葉が頭の中で響いても、足は動かなかった。それでもなお、体は前に進もうと、
そして……目の前にあるモノを見て、私は両眼を大きく見開いた。
それは、とても大きな白い塔だった。
今まで走ってきた途中で、一度も気づかなかったのが不思議なくらいに目立つソレは、この夢の中心であることを
雲の向こうでは、陽の光を浴びて薄く消えつつある満月と、ピンクやオレンジの混じり合った色をした空が、朝の訪れを告げていた。
朝が来た。
もうすぐ夢が終わる――。
そう気づくころには、体を支えている腕からすっかり熱が消え失せてしまった。足と同じように動かなくなってしまったというのに、そんなことが
考えているうちに空に釘付けだった目線は、徐々に下がっていく。塔の形は巨木の幹のようで、根元に近づくにつれて太く、輪のような模様が刻まれている。その根元には、塔を縁取るように黒い線が引かれていた。
その線の上。ちょうど、塔の軸が重なり合う場所に、細い人影がひとり、こちらに背を向けて立っていた。神社の神主さんみたいな黒い
「ぁ――」
心臓が強く鼓動を打つ。でも、痛みも嫌な不快感もちっとも覚えない。むしろ、その人の姿を認識したとたん、体の底から熱が湧き上がる。私を蝕む全てのものを吹き飛ばして、代わりに寄り添ってくれているかのような心強さと、ほんの少しの
ああ、そうか、この人は。
ワタシが
「……ぃ……ま」
その人の名を呼ぼうとしても、口から出るものは
光りが街の全てを照らすように染みわたっていく。もう時間がない。ワタシは最後の力を振り絞って手を前へと伸ばす。
「……さま」
枯れた声を上げながら、その人の
やっと、やっと逢えた_。
心が歓喜で満たされる。この人はとても大切な人。この人はワタシにとっての_。
「……ぇ」
そこで気が付く。こちらに振り返ろうとしている人影が、まるで
「どうして……なんで……?」
私は
「やだ……やだ!」
みっともなく
直ぐにここから離れよう。そう思いながら後ず去ろうとする。
「……っ、なんで!」
足が動かない。痛みや疲労からくるものではなく、地面に縫い付けられたみたいに、この場から離れることが出来ない。足元を見ると、タールのような黒い液状の物質が地面から
「た……す……け」
黒い液は、体を這い上がりながら侵食してくる。
暗い。寒い。熱い。怖い。痛い。苦しい。まだ、消えたくない_。
薄れゆく意識。冷たい感触が首下を撫でるように込上げる。私が悪夢に塗り替えられた世界で最後に目にしたものは。
「――」
燃え続ける街と、白から黒に変色した塔の残骸だった。
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