蝶と脳漿 八人の少女たち
tanaka azusa
八人の少女たち
「これは十三年前に火葬された少女の記憶である。或いは、わたしが彼女らであったかどうかさえ、今となっては定かではない。
あたしは母の化粧台の鏡の中に八人の少女を見た。ひとりは泣いていて、ひとりは含み笑いで、ひとりは目がなくて、ひとりはわたしの名前を知らなかった。
その全員が、たしかに、あたしだった。
小動物の死骸のような匂いのする台所に立つ母の手首には赤い糸が巻かれていて、それをたどるとあたしの喉元に刺さっていた。
「ママはね、おまえが呼吸するたびに少しずつ老けていくのよ」
そう言って、母は笑って、赤い糸をぐいと引いた。白く細い首筋の毛細血管が疼く。
それからのことはよく思い出さないようにしている。たしかに、あたしは鏡の中でくたばった。
髪が燃えた。蝶が鳴いた。あたしはあたしをやめることにして、それから心が踊った。後はもう八人のうち誰かが人生をやればいい。
眼球のような月だった。血走る夜空は気持ちが良い。あたしの指の内側には、あの八人の少女のうちの誰かが操る。たまに赤い糸が見えるのは気のせいである。それらは、爪の根元から肉を舐め、骨の管を這って耳の奥にまで入り込んでくる。
最初は風の音のふりをしていたけれど、ある日それがキィキィと泣いた。それもあたしの声で。
記憶が正しければ、十一歳の冬、校庭の雪に横たわると、耳から声が漏れた。
「おまえは誰だ」
声はそう言った。
あたしは返事をしなかった。できなかった。
口の中で歯のようにぐらぐらして名前なんてとっくに忘れていたし。
先生はあたしの肩を叩いたけど、その腕が透けていた。よく見ればあたしの皮膚も血管と微量な筋肉を残し透き通る。みんな、内臓だけで歩いていた。心臓がひどく目立った。こころなんてものがこの世にない事が可視化されてあたしは嗤った。キィキィと笑っているとぼたぼた耳からこぼれ落ちた。あれは涙だったのかもしれないな。
それから悪夢が続いた。昔っから悪夢なんて見ていたんだから慣れっこだったけれど、必ず蝶が舞うのが印象的で息を切らして目を覚ますのだった。夢と記憶の区別がつかなくなくなるのは初めてだ。
誰かが、あたしの背中をかっ裂いて毎晩何かを書き込んでいた。お経のような筆たちだったが、幼くて分からなかった。朝になると、皮膚がちくちくして、母の化粧台の三面鏡に連なる私の背中に目をやればそれはまたも赤い縫い痕がありありと隠しもせずに存在している。そのどれかがキィキィと咽び泣くので、そこからあたしは毎日、新しい名前を持つことにした。母はそれを睨むようにして部屋の隅から揚羽蝶をへつらえた手鏡を顔にくっつきそうなほど近くで身なりを整えている。その隙間から覗く目は美の執念と嫉妬まじりの禍々しいものだった。女、女、女。
相変わらず化粧台にこそこそと忍び込み、そこを開くと必ず八人の少女がおり、私の自我は悉く希薄になっていた。そこで私は壱〜捌の番号の名を彼女らに与えることにする。
壱は、真っ先に記憶を棄てた。
彼女はいつだって目を縫い合わせていた。丁寧に、糸を揃えて。白目のところを最初に縫って、次にまぶたを塞いだ。その順番をあたしは幼くして学んだ。彼女は、母の笑い顔も、父の喉仏も、食卓の上で乾いた血も、何ひとつ見たことがない。見ないで済むことの強さを、彼女は知っていた。だけど、壱が歩くと、どこかで必ず磨り硝子の割れる音がした。
盲いたままの少女が歩くたびに、過去が砕ける。夜中、布団の中で隣の少女がすすり泣く音がすると、壱の耳元で蛍光灯が弾ける。
「見ることは罪よ」と壱は笑う。
けれど誰にもその笑顔は見えない。
弐は、常に話している。
話さずにいると皮膚が裂けて喉が渇くのだという。幾つか皮膚が裂けたであろうケロイドは道化師のように煌めいている。誰も聞いていないのに誰も見ていないのに笑い、戯ける。
「これは、わたしではなく、あたしの言葉よ」と言う。だけどその言葉が真実かどうかは、もう私にはわからない。なぜなら、弐の舌は何度も噛みちぎられている。その舌を集めて木箱に入れた。
参の頭には一本の髪もない。
生まれつきだったのか、はたまた剃刀で剃ったのか、抜いたのか、誰にも教えたことがないと言うが髪は女の命である。それに僧侶というより病の一種と言った方がしっくりくる。
というのは彼女の頭皮には無数の傷跡と、「言葉」が書かれている。あれはかつて私の背中に書かれたものだと思う。呪いなのか祈りなのか。
ある朝、「この毛根には、記憶が埋まっているの」と言って、自ら髪を焼いた。
煙は甘かった。たぶん、砂糖の夢を見ていた。
その朝焦げ付いたカラメル、そんな匂いが鼻をついた。
四を呼ぶと、誰かが死ぬ。
それが迷信なのか、偶然なのか、確認しようとしなかった。何故なら私に関係の無いことだからだ。四は他の少女たちと一緒に遊ぶことを禁じられている。だから、ずっと独りきりでブランコを漕いだり砂の城を作り壊し作り、そう繰り返した。四が呟いた。
「あたしは、誰かの身代わりだったらよかったのに」それを聞いて首を傾げた。月が丁度その角度であった。
伍の顔は二つあった。
正面の顔は笑い、もうひとつの顔はいつも泣いていた。前の顔が「生きてます」と言うと、後ろの顔が「死にたい」と囁く。伍にとってはどちらも本音で、どちらも嘘だ。細い首に束ねるように生えている頭蓋骨はあまり違和感の無いものだった。何というか花のようで、蝶は決まって黒揚羽が周りを跳ねていた。
どちらの顔が本当の顔か尋ねると、伍は言った。
「それを決めるのは、あなたの顔でしょ」
首を傾げると耳元に黒揚羽が止まってすぐに飛んでいった。
陸の耳には、何かが住んでいる。
蝿、蟻、蛾、時には見たこともないもの。
彼女は口を動かさずに話す。けれど虫は、ちゃんと返事をする。
「わたしの言葉は、あの子たちの通訳」
彼女がそう言った日の夜、わたしの布団に蛆が湧いた。
母は、わたしの指先が冷たいのを喜んだ。
漆は、前を向いて歩いたことがない。
いつも後ろへ、後ろへ、引きずられるように歩く。死んだ人は良く生きてる人と逆のことをするという。それに似た退廃的な雰囲気である。
「前には未来があるでしょ。見たくないの」
そう言って、過去だけを見続ける。
彼女の背中はとても美しく、でも誰もその顔を知らない。うっかり追い越すと、あなたの“今”が失われる、と忠告をこの間受けた。
捌は、わたしに最も似ていた。
笑い方、声の高さ、書く字の癖までそっくりだった。でも彼女は、絶対に「わたし」とは名乗らなかった。「あたしは、あなたの夢でしかない」
そう言って捌はそっぽを向く。
夢は、夢の中でしか死ねない。だから今も、彼女だけが生き延びていた。
わたしは、八個の真珠を母の化粧台から見つけ、自分の背中を縫う糸を引き開き、その糸で一つひとつ括りつけた。
母はキィキィと笑いながら、ある日、不在となった父の喉仏から白い涙を搾り出し、それらは部屋中に膜のように張りついていった。
わたしは、括りつけた真珠が歪んでいくのを、ただ眺めていた。
目が覚めると、紋白蝶の死骸が八匹、枕元に落ちていた。
わたしが母の手鏡を手に取ると、顔も目も口も、化粧台の鏡へと吸い寄せられ、壱から捌までのあの少女たちは、もうどこにもいなかった。
蝶の群れに導かれて、赤い糸は炎へと姿を変える。
炎は部屋を焼き尽くし、化粧台も、手鏡も、あたし自身の皮膚までも焦がしていった。
鏡の中の少女がこちらへ手を伸ばし、「おいで」と呟く。
火の中、わたしは彼女と融合し、消えていった。
「待って! 待って!」
そう叫んだのが、わたしだったのか、誰だったのかはわからない。
……ページを閉じる。
ノートの角は焦げていて、間に一枚の蝶の翅が挟まっている。
わたしは手鏡を伏せ、ゆっくりと椅子を立った。
窓の外には、真昼の空をふらふらと舞う蝶が一匹。
そして、その鏡の奥では、また八人の少女がわたしを見つめていた。
――誰も、もう、泣いてはいなかった。
キィキィ、キィキィ
了
蝶と脳漿 八人の少女たち tanaka azusa @azaza0727
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