潮騒の港−ひかりの海−
Spica|言葉を編む
第1話:神戸港─ 港の風を歩く ─
港の風は、少し湿っていた。
肩に掛けたカメラの重さが、やけに意識にのぼる。
九鬼
父の見舞いを終え、帰り道にふと港まで足を伸ばしただけだ。
特に撮るつもりはなかったが、職業柄、どうしてもカメラを携えてしまう。
神社の参道沿い──大楠の横にある実家は、祖父の代から続く写真館だった。
数年前に看板は下ろしたものの、今も「九鬼写真館」のまま残っている。
寡黙な父は相変わらずそこにいて、社交的な母は町内会やダンス教室で忙しそうにしている。
慶彦が家を出た頃と、何ひとつ変わっていない気がした。
******
東京にいた頃、華やかなブランド広告の世界で写真を撮っていた。
Cartier, GUCCI, PUCCI──ヨーロッパの名だたるハイブランド。
光と影が完璧に設計された世界。
その中で、彼はシャッターを切り続けた。
やがてその腕は評価され、東京コレクションのランウェイ。
その奥に浮かぶモデルの表情──冷ややかな微笑みと、ひとつひとつに意味を背負わせた衣装の流れ。
あの世界は、完成されていた。
だが、だからこそ、息苦しさを覚えるようになっていった。
******
今はただ、歩きながら景色を見ている。
構図も、光も、意識していない。
ただ──見る。
メリケンパークの芝生の上では、若いカップルが肩を寄せ合っていた。
その隣では、小さな子供を連れた夫婦がピクニックシートを広げている。
慶彦は、足を止めた。
視線の先の子どもの笑顔が、ファインダー越しでなくとも鮮やかに映った。
思わず肩のカメラに手を伸ばしたが──やめた。
今はまだ、そういう写真を撮るべきではない気がした。
少し歩いて、港の奥へと向かう。
オリエンタルホテルの白い半円が視界に入る。
その向こう、岸壁には大型客船「日本丸」が寄港していた。
潮の匂いとともに、観光客のざわめきが微かに漂ってくる。
さらに歩を進めると、遊覧船のチケット売り場が見えてきた。
並んでいるのは家族連れやカップルたち。
その光景を見ながら、ふと慶彦は思う。
──観光客として、この船に乗ってみるのも悪くないかもしれない。
ただの旅人の気分で、港の景色を切り取ってみるのも──。
気づけば、彼の足はチケット売り場へと向かっていた。
******
春先の潮風に吹かれた身体は、思っていたより冷えていた。
本当はこのまま飲みに行きたかったが、せっかくの帰郷だ。
母が手料理を用意していると聞いている。
ならば、と港を離れ、少し山の手に足を向けた。
観光客の賑わいから距離を取るには、ここがちょうど良い。
父に昔、連れてきてもらった珈琲店が、このあたりにあるはずだった。
******
──あった。
古いレンガの壁に、手書きの看板。店の佇まいも変わっていない。
扉を押すと、少し重い空気と珈琲の香りが迎えてくれた。
カウンターの隅に腰を下ろし、メニューを眺める。
身体を温めたかったのもあるが、ふと目についた「アイリッシュ珈琲」を頼んだ。
ほどなくして供されたグラスの中で、琥珀色の液体とクリームが揺れていた。
一口含む。甘さと熱がじんわりと喉を下る。
──気づけば、船の上の風景を思い出していた。
******
行き交う観光客、異邦人、幸せそうなカップルと家族。
シャッターを切る手は動かなかった。
まだ撮れない。ファインダー越しに見えてしまうものが多すぎた。
それでも、一羽、凛として波間に浮かぶカモメの姿には、自然と手が伸びていた。
──せめて、一枚だけ。
人工の完璧さと、自然のゆらぎ。
その間で、いまの自分が何を切り取ろうとしているのか、まだ掴めずにいた。
******
低い汽笛の音が遠くから響いた。
グラスの中の琥珀色を見つめていた目が、ふと窓の外に向く。
「もうすぐ降り出すでしょうね」
カウンターの向こうから、マスターが穏やかに声をかけた。
そうかもしれない。空はすでに鈍い灰色に染まりかけていた。
「雨に濡れる前に、戻られるのが良いですよ」
促されるようにグラスを空け、席を立った。
******
家に戻る頃には、ぽつり、ぽつりと冷たい粒が肩に落ち始めていた。
「おかえり。もう降ってきたわね」
玄関先で迎えた母が、タオルを差し出す。
もう食卓には湯気の立つ料理が並んでいた。
母は台所に立ちながら、父の様子をぽつぽつと話す。
病状は少し落ち着いている、と。
ふと、母が言いかけた。
「……美佳ちゃん、来年は中学生になるのよね。何か、お祝いでも──」
「……ああ、そうだね。でも、今はまだ……また、改めて話すよ」
慶彦は静かに言葉を遮った。
食事のあと、明日の予定を母に伝えた。
「明日、東京に戻るよ。少し落ち着いたし、また顔を出すよ。」
母はうなずいた。
******
21時、夜の街に出た頃には、雨は本格的に降り始めていた。
港まで足を延ばそうかとも思ったが──今はそれより、この雨音に包まれていたかった。
傘越しに響く雨の音が、潮騒に溶けていく。
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