第29話
健太の滞在は、裕子と正樹の関係に、冷たい空気を持ち込んだ。
健太は、裕子の実家を拠点にしながらも、毎日のように裕子のアパートや畑を訪れた。彼は正樹に会うたび、さりげなく、だが容赦なく都会の価値観を突きつけてきた。
「高橋さんは、本当にこの町から出ないんですか?一度、東京でキャリアを築いたなら、次はそれを活かすべきでは?」
「農業も、大規模な組織運営や、キャリアを積み上げる感覚がないと、ただの重労働ですよ。裕子の才能は、もっと大きな舞台で活かすべきだ」
正樹は、健太の挑発を静かに受け流していたが、心の中では複雑な思いが渦巻いていた。裕子が健太と話すとき、一瞬でも都会の論理に引き戻されるのではないかという不安。そして、健太の言うことが、ある意味で正論であることも、彼には分かっていた。
ある日の夕方、正樹は裕子を連れて、海辺のカフェに来ていた。裕子のホームページの打ち合わせを装い、二人きりの時間を作ったのだ。
「裕子、健太の言ってること、どう思う?」
正樹は、ストレートに尋ねた。
裕子は、正直に答えた。
「彼の言うこともわかる。でも、私にはもう、あの競争社会に戻る体力がない。それよりも、正樹さんの畑で、自分の手で何かを生み出す喜びを知ったの」
「俺は、裕子に我慢してほしくないんだ。裕子が本当にしたいことが、東京にあるなら…」
「本当にしたいことは、ここにあるよ。正樹さんと一緒に、この畑を大きくすること」
裕子はそう言って、正樹の手を握った。
その時、カフェのドアが開き、美咲が入ってきた。彼女は、二人の親密な様子を見て、一瞬、立ち止まった。
美咲はすぐに平静を取り戻し、二人に向かって歩み寄った。
「ちょうどよかった。正樹、耕作さんが探してたわよ」
そう言う美咲の視線は、裕子の手にある正樹の手に、釘付けになっていた。美咲は、裕子が正樹のビジネスパートナー以上の存在であることを、確信したようだった。
「裕子さん。東京から来られた松本さんと、お話させてもらいました」
美咲はそう切り出した。
「彼は、あなたの才能を惜しんでいるようね。『裕子さんがこの町に残るのは、正樹さんのわがままではないか』って」
美咲の言葉は、まるで裕子の心の中にある罪悪感を、直接突いてきたようだった。美咲は、正樹を想う気持ちと、地元の人間としての正義感から、健太の言葉を代弁し、裕子に決断を迫ったのだ。
「私は、裕子さんがどちらを選んでもいいと思う。でも、中途半端な気持ちで、正樹さんの夢と、この町を弄ばないでほしい」
その言葉は、健太の冷たい言葉よりも、ずっと重く、裕子の心に突き刺さった。
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