第9話
東京に戻って一週間が経った。裕子の日常は、以前と何も変わっていなかった。いや、何も変わっていないように見えただけかもしれない。
以前なら気にも留めなかったことでも、ふとした瞬間に海辺の町での日々を思い出す。残業で疲れた夜、窓の外のネオンを見て、星が綺麗に見えた畑を思い出す。ランチタイムに食べたコンビニのサンドイッチは、正樹からもらったトマトの味には遠く及ばない。
「これ、修正よろしく」
上司から渡された資料には、赤ペンでびっしりと書き込みがされていた。修正箇所はほとんどが、裕子のアイデアを否定するようなものだった。以前なら「はい」と返事をし、すぐに作業に取りかかっていただろう。しかし、今日は違った。
『お嬢さんは、ちゃんと「生きている」から』
正樹の言葉が、脳裏をよぎる。
裕子は、初めて上司に意見を言った。
「ここ、どうしてこのデザインではダメなんでしょうか?」
上司は驚いた顔をした。いつもの裕子なら、決してしない質問だったからだ。しかし、裕子は引かなかった。
「このデザインには、私なりの思いが詰まっているんです」
その日の夜、裕子は遥と久しぶりに食事をした。遥は裕子の変化に気づいていた。
「ねぇ、本当に何があったの?」
遥は、グラスを傾けながら裕子に尋ねた。
「何かあったってわけじゃないんだけど…」
裕子は、海辺の町での出来事を、正樹との出会いを、そして彼がくれた言葉を、すべて遥に話した。
遥は、ただ静かに聞いてくれた。そして、話し終えた裕子に、ぽつりと尋ねた。
「じゃあ、あんたは、その人のことを好きなの?」
「…分からない。でも、あの人のおかげで、今の自分がいる気がする」
「ふーん。やっぱり恋じゃん」
遥はそう言って、にこりと笑った。
翌日、裕子は会社を定時で上がった。そして、スマートフォンを取り出し、正樹にメッセージを送った。
『お元気ですか?』
すぐに返信が来た。
『元気だよ。そっちはどうだ?』
『変わりません。でも…少しだけ、強くなれた気がします』
『そっか。よかった。』
その短いやり取りが、裕子の心を温かくした。
そして、彼女は気づいた。正樹がくれたのは、居場所だけじゃない。もう一度、自分と向き合う勇気だったのだと。
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