第7話

正樹の過去を知った裕子は、彼に対する見方が変わった。ただの明るい農家のお兄さんだと思っていたが、彼もまた、自分と同じように都会の荒波で傷ついた人間だったのだ。


作業を終え、二人で畑の端にある軽トラックに腰かけた。目の前には、どこまでも続く青い海が広がっている。


「…私、明日、東京に戻ります」


不意に口から出た言葉に、裕子自身が一番驚いた。本当はまだ帰りたくなかった。でも、このままここにい続けるわけにはいかない。それは、痛いほどわかっていた。


正樹は、ただ静かに海を眺めていた。何かを言うでもなく、ただその存在を隣で感じさせてくれた。それが、今の裕子には何よりも心地よかった。


「そっか…」


ぽつりと正樹が言った。


「そっか、寂しくなるな」


その言葉に、裕子の胸が締め付けられた。


「…また、来てもいいですか?」


裕子が小さな声で尋ねると、正樹は顔を向け、優しい笑顔を見せた。


「いつでも歓迎するよ。この畑は、お嬢さんを待ってるから」


その言葉は、まるで魔法のようだった。裕子の心に絡みついていた不安や焦りが、少しずつほどけていくのを感じた。


「でも、東京で頑張るんだろ?またいつでも来られるわけじゃないだろ」


正樹は、彼女の目をまっすぐ見て言った。


「そうですね…」


「でも、大丈夫。ここに帰ってこなくても、お嬢さんがどこにいても、きっと自分の居場所は見つかるよ。お嬢さんは、ちゃんと『生きている』から」


彼の言葉は、裕子がずっと欲しかったものだった。誰もが「ちゃんと頑張れ」としか言わなかった世界で、彼は「ちゃんと生きている」と言ってくれた。


次の瞬間、裕子の目から、涙がこぼれ落ちた。


「どうした、泣くなよ」


正樹は慌てて、自分のTシャツの裾で裕子の涙を拭った。


その手は、日差しと土の匂いがして、とても温かかった。その温かさが、裕子の心を優しく包み込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る