海眺めしサビ猫
熄香(うづか)
海眺めしサビ猫
三年ぶりの実家は相変わらずで、久方振りに再会した母も心なしか痩せていた。以前の大根のような足も膨らんだ餅みたいな顔も、今では名残りと変わっている。盆休みに併せて来たと言うのに、二日間の滞在は私と母の関係を考えるなら妥当なのかも知れない。
私の母。仲はいいけど悪い。一生懸命で責任感が強くて私に衣食住だけ与えてくれていた感覚。激情した時は私の話を一切聞いてくれなくて怒鳴り続ける、一方的な母。八つ当たりばかりでも、時に面白くて話が合う友達みたいな……。子供らしい一面もあって可愛らしい母を、親と思った事がなかった。そんな関係に合う言葉が見つからなかったけど、この歳になって今から名付けるとするなら『肩書きだけの家族』のような気がする。
潮風が届く海岸に面した平屋日本家屋をけたたましい音を立て、深夜のコンビニ店員のような気の抜けた声で「ただいまぁ」と入った。一人暮らしの都内アパートとは違う古くて匂いのレイヤーが何層も重なった家の匂いが、すぐに記憶の底に触れた感覚。少しずつ、実家に帰ってきた事実を裏付ける。下駄箱の棚の上は縁起物やら壁掛けの絵が、所狭しと並んでいるのは昔から変わらない。五年前に祖母を亡くしているから靴の数は前より減っていて、母のスニーカーは去年購入したと連絡が入っていたが今ではすっかり土に汚れていた。家に上がると木の床が不機嫌そうな音を足音に合わせて鳴り、確実に前よりもひどくなった。
キッチンでは母は後ろ姿でエプロンを珍しくかけていた。幼少期の頃までは身につけてたので、覚えがあるのだ。薄黄色のフリルが控えめに施してある、小花柄のエプロン姿を見るとまだ小さい時床に座って見上げた先に同じ……。いや、今よりも細身でテキパキとした動きをする後ろ姿を見ていたのを思い出す。聞き慣れた包丁さばきの音が久々だった。母は、迎える言葉を言っていたが流しの水の音で半分以上聞き取れない。
今では多分、お互いの接し方を忘れている。自室投げ入れた荷物に虚しさも詰め込んで。
本日は生憎の曇りです。まだ夕方前の気怠い時間帯に外に出た。地元に住んでいた時と変わらない海風はこうやっていつも歓迎してくれる。耳に風の話し声がしたと思えば手櫛ですくように髪を後ろに流した。湿ったアスファルトは妙に埃っぽく、けれど清々しさも感じている。朝方まで降っていた雨の名残りはほとんど消えかかっていた。肺いっぱいに空気を溜め込んで日頃の鬱憤と共に吐き出すと海岸まで歩いた。歩道は狭く、大半が生い茂る雑草達に占領されてしまったのだ。しばらく進んだ先、徐々にコンクリートと砂浜が混ざり始め曇天の隙間から垣間見れる陽の光が昔飼っていたサビ猫の柄とよく似ていた。
猫、と言えば、小学生時代に飼ってた。チロと言う小柄な雄猫を飼っていたことがある。釣り上がった大きな目をし、一番懐いてたかわいいかわいい存在。私の宝物がこの世を去ったのはもう何年前だっただろうか。
とある日の授業にてそのサビ猫のチロの貯金箱を作った記憶があった。あれはまだ小学生の時に母に褒められたくて子供ながら丹精込めて作った作品。もうすぐ完成というところで悲劇が起きる。クラスの男子生徒が私の作品に当たって見事に割ってしまったのだ。その時は、頭の中が真っ白でショックだった。
床に残る、折れた耳。
半分近くがそげた顔。
部分と分裂する胴体。
床に落ちて真上を見上げるかけら達……。チロの瞳は静かに蛍光灯を反射している。謝罪の言葉も耳に届かなかった。その日はまっすぐ家に帰ることなく、この同じ場所で時間を過ごし、海に宥めてもらった。授業で作った手製のトートバッグの中に割れた貯金箱を入れて、なぜか持って帰ってきた残骸。不器用ながら忠実に被毛のいろをのせた。再現すべくビーズを使って、我ながら可愛いと思っていた。特に目がお気に入りだった。今思えば帰ったら母に「かわいいね」「よく頑張ったじゃん」って言って欲しい気持ちが一番あったかもしれない。それがいつの日か私も少しずつ大人に近づいていく事に母との衝突が増えていって離れる決心がついたんだろう。まだ一度って心から甘えたことないのに。
そんな特別な想いがあったチロの貯金箱が、破裂するように砕けるなんて。誰が想像しよう?愛着心もあったから、貯金箱のチロが可哀想で仕方なかった。でも何処か虚空だった。言ってしまえばただの作品なのに〝死んでしまった〟と言う言葉が近かった。どこか冷静な自分もいて、人も突然死んだらこんな感じなんだろうと思った。
その事件を今のいままで忘れていて、そして何故今思い出したかはわからない。だけどそんなこともあったなぁなんて思って暫くそこに佇む。
今日も海は変わらない。記憶のチロも変わらない。変わっていったのは、私と母の気持ちなのだ。
「あかねちゃん」
ここに居ない筈の母親の声が風に混ざって聞こえてきた。振り返ると少しだけ老けた自分とよく似てる顔がそこにあった。緩く口角を上げて息を吐きながら近づいてくる。
「おかえり!お夕飯できたよ」
小さな頃から変わらない母の声は昨日までずっと一緒に生活していたかのような口ぶりだった。機嫌がいい時の声だったが、それでも、楽しかった母との記憶に結び付く。いろんなことがあった。それら一つ一つ、いつか「あんなこともあったね」と思える日は来る。——手料理の晩御飯。あと残り何回食べるだろう。
私たちは並んで海を眺めた。海風が二人の沈黙を緩和させてくれていた。お互い、歳を重ねた事を実感する。母親らしくなかった彼女は親と言うよりあまりに人間臭くて、怒ると台風が接近してる荒波となり、機嫌が良いと楽しい存在だった。逆らえない時間の流れを思うと、貯金箱の百倍も切なくなってきたので、私は母よりも先に海に背を向けて歩き始めた。
「ありがとう。おかあさん」
手を引いて二人で帰る家に海はきっといつものように変わらぬ佇まいで見守ってる事だろう。玄関の隅に割れた筈の貯金箱が直して飾ってあることに、全然気づけなかった。その首には生前チロがつけていた首輪が、かけてあった。
了
海眺めしサビ猫 熄香(うづか) @RurineAotsuki
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