第1話への応援コメント
初めまして、面白い考察でした。
一人称における『後にあんなことになろうとは』に類似する記述は、その一人称が『手記』や主人公の『回想』の体裁がなければどうあれ記述失敗なんですが。これって自覚し難い事らしいですね。
体験を追従させる書き方で、ああした記述をすれば擁護しようがない作者レベル不足、そう断言するしかない。
読みながら考えてましたが、それはそれとして、なんでそうなるんだろう? と疑問も湧きました。
一人称って実は面白いんすよね。なろう的な一人称って『私小説』みたいな形式で、カメラワーク、読者の視点って大体は『口』にあるんです。
風景とか動作とか、温度とか香りとか。大体のなろうは書かない、或いは書く技量がないんですけど。そうすると読者は主人公の『目』より『口』と『内側』に向いちゃうんですよね。
こうした書き方も実際表現としてはありで、技法として存在します。問題は古典的と呼ぶ一人称が『目』を活用している点。
なろう的な一人称は内側ばっかりで、説明して、読者に甘えているんです。共通認識がテンプレートだから、負担がない訳です。
これは分かり易さや共感を引き出すのに特化し、その場の空気を体験させる力を弱めた結果でもありますね。
要するに、パターンを外れると途端に伝わらなくなるんすよね。
これってかなり致命的欠陥で、新たな風景を伝えられない。
風景がずっと白紙で、口と自意識しか浮かばなくなるリスクがあるんです。
解決策はやっぱり古典的、と呼ばれる一人称。カメラを内側ではなく外側に向けたものしかないんですが……これがまあ、悩ましいもので苦笑
大方の読者は体験を求めてないんすよね、その書き方。
近頃は顕著です。どれをみても、なんか私小説ばっかりで。これがなろうか、と犇々感じていますね。
実に面白い創作論でした。
第1話への応援コメント
コメント失礼します。
僕は「一人称小説」=平井様の仰る「古典的一人称」として教わりました。
ですので、WEB小説界隈で「なろう的一人称」が溢れかえっているのを見てそれはもうモヤモヤが溜まっていましたが、
一人称形式の中にもスタンスの異なる叙述法が混在している
と書いてくださったことで、目から鱗が落ちる思いがしました。
「三人称にも三人称一元視点と三人称神視点がある」のと同じような話だと考えれば、今後は「なろう的一人称」について割り切って考えることができそうです。
ありがとうございましたm(_ _)m
作者からの返信
感想ありがとうございます!
古典的一人称になじんでいる方には、やはり昨今のなろう的一人称には違和感があるのですね。
別物と割り切る、というのは意外と大切なことかもしれません。
第1話への応援コメント
コメント失礼します。
面白い創作論ありがとうございます。
シャーロック・ホームズを読んだことがなかったので、ワトソンの報告書的な書き方があることを初めて知りました!
Web小説でよく気になるのが、一人称視点の中でも地の文の中で本来()で括られるようなものが書かれていることでした。
例えば今回の例えを引用させていただくと、『 はぁ? 冗談じゃない! 俺の平和な一人暮らし生活はどうなっちまうんだよ!?』の部分ですね。
一人称視点が苦手という訳ではなく、地の文の中に口語的なキャラクターの言葉が出てくることがどうも個人的に興ざめに繋がってしまうようで……しかもそのあと普通に『俺はそのために動いた』みたいな語り口調が入るのが余計に気になってしまうところ。
でもそういう方がかなり多いんですよね。書きやすいんですかね、分かりませんけれど。