未来を見た男
河村 恵
ある男の記録
田島は夜中に目を覚まし、水を飲みに行った。
キッチンに行く途中、リビングのテレビの明かりが見えた。
リモコンを手に取り、電源ボタンを押して消そうとした時、テレビに映ったものを見て手が止まった。
画面に映っていたのは、うちと同じ作りのよその浴室だった。
いくら深夜帯とはいえ、ホームビデオで撮ったような画質に呆れた。湯気で曇った鏡が写り、白いタイルの壁が続く。そこに、湯船に身を沈めていく男の後ろ姿。
どこかで見た肩のライン。背中のホクロ。天然パーマの黒髪。
腕にはめられた自分と同じ腕時計を見て田島は背筋が凍った。
まるで、それが自分の後ろ姿のように思えたのだ。
「おいおい、時計しながら風呂に入るなよ」
テレビの中の男に向かって声を出した。
画面の中の男は、しばらくすると湯船から立ち上がり、体を拭くと淡々と服を着て浴室を出て、そのまま玄関のドアが閉まる音が聞こえた。
しばらく無音のままドアだけが映し出されていたが、画面が真っ暗になった。
「なんだったんだ? くだらない」
田島は電源ボタンを押してテレビを消した。
朝になると、昨晩見たテレビのことなど忘れて、仕事へ出かけた。
懇親会で帰りが遅くなり、朦朧とする意識の中でなんとか自分のマンションに帰ってきた。
玄関ドアの前で鍵を探すのが面倒になり、ドアノブを回すとドアが開いた。
今朝鍵を閉め忘れたのかもしれない。これまでにもそういうことが何度かあった。しまったと思う反面、解錠の手間が省けてラッキーとも思えた。酒に酔った全身を一刻でも早く湯船にしずめたかった。
中に入ると、慣れない香りがした。そうだった、昨日、後輩からもらったアロマなんとかというのを玄関に置いたのを思い出した。
靴を脱ぎ、いつものように服を脱ぎながらバスルームに向かった。
少し熱いくらいのシャワーが、自分にまとわりついたさまざまなものを洗い流していくのを感じながら目を閉じた。
湯船に浸かり、じんわりと体温を上げていく。湯船に浸かった腕には腕時計がついたままだった。生活防水程度の防水はあるはずだった。酔いが回っているのも手伝って腕時計をはずすことさえめんどくさくなり、そのまましばらく湯船に浸かった。ーー唐突に思い出した。昨夜テレビに映っていたあの映像。
「まさか…」
浴室を見回すと、見慣れないシャンプーやタオルが視界に入ってきた。
(ここは、うちじゃない…)
心拍数が一気に上がる。
呼吸が荒くなり、音を立てないように気をつけながら、急いで浴室をでた。廊下に点々と落ちている服を拾いながら手早く着ていく。部屋のレイアウトが自分の部屋と微妙に違うことに気づいた。
温まったばかりの体から体温が一気に奪われてゆく。
廊下と部屋を隔てるドアに嵌められたすりガラス。この向こうにここの住人がいる気配がする。
廊下に飾られた花のイラストや刺繍。
田島は何も言わずにあわてて玄関から出た。
深夜のマンションの廊下は、やけに静かだった。
自分の胸の鼓動がこだましそうに長い。
じっとりとした額の汗を拭いながら突き当たりまで歩いた。
何度も振り向きたいのを我慢して足早に階段を昇る。ほぼ同時に、背後でどこかの玄関が開くような音がした。
自分のうちにたどり着くと、ソファにもたれかかった。
リビングを見まわし、自分のうちであることを確認するとどっと眠気が押し寄せてきた。
翌日の夜もテレビが勝手に映像を流していた。
そこには、見知らぬ部屋のリビング。自分と、一人の女性が並んで座っている。
女性は長い髪を束ね、淡い色のブラウスを着ている。田島の好みとは真逆の薄い顔の女で、襟元には花の刺繍があった。
笑顔を浮かべ、楽しそうだった。テーブルには揃いのマグカップが2つ置いてある。
田島自身は、すこし疲れた顔をしていたが、安堵した表情をしていた。
「なんだよ、これ」
画面の中の二人は穏やかに見えた。
しかし、田島の心はざわついていた。
女性は、昨日自分が間違えて入ってしまった部屋の住人のように思えてならない。襟元の刺繍が昨日、あの部屋の廊下で見たもののに似ていたからだ。
一瞬、テレビの中の女と目が合ったように感じて目を逸らし、慌ててリモコンを探した。
足元から崩れるようにソファに倒れ込み、恐怖に震えた。
数日後、偶然その女性を見かけた。
エレベーターで一緒になった。一瞬、目が合ったが、女性は軽く会釈しただけで降りて行った。
「やっぱりこの人だ」
田島は体が動かなくなった。
昼間は仕事中もなんとなくもやもやして、明らかにペースが落ちていた。
上司に怒られても、今の田島には響かなかった。
夜、またテレビがつくのをソファに座って待った。
0時きっかりにテレビはついた。
「未来ってかえられるのかな?」
あの女性のアップが写り、だんだんと引いていく。
画面の中の自分は、泣き笑いのような表情で頷いている。
女性がペンを握り丁寧な字を書いている。
沙耶
そうだった、管理組合の名簿でその名前を見た覚えがある。
たしか、田島の階下に住んでいる独身女性だった。
このテレビはいったい何をうつしているのだろう。
そして、ついにゴミステーションの前で二人は出会った。
避けられようのない出会いだった。
「おはようございます」
「あ、おはようございます。あの、実は先日、…」
田島が言いかけた時、沙耶は静かに首を振った。そして、一歩近づき、優しい笑顔を浮かべる。
「大丈夫です。私も知っています」
「知ってる...?」
その言葉で田島の心拍数は跳ね上がった。
謝る言葉を探しているのに、脳みそはまるで煮えたぎっているかのようで何も考えられない。
「そう、私、知っているの。テレビのこと。あなたのこと。そして、私たちの未来のこと」
「あの…」
沙耶は田島の頬にそっと手を添え、軽くキスをした。暖かく、優しい感触。
「未来は変えられるかもしれません。でも、出会うべき人とは、きっと出会えるんです」
田島は声を失った。ただ、胸の奥で何かが溶けていくのを感じていた。
テレビが映していたのは未来だったのか。
答えはもう、どうでもよかった。
未来を見た男 河村 恵 @megumi-kawamura
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