『ラブコメ勉強中のところ恐れ入ります。』と担当から連絡が来た。
@testingdag
第1話
『ラブコメ勉強中のところ恐れ入ります。』と担当から連絡が来た。
今、自分はチェーン店のカフェに座ってタブレットで構想を練っているところなのに、つい飲んでいるものを吹き出してしまった。アイスティーが鼻に入って、むせながら慌ててハンカチを探す。ついさっきSNSでこっそり自分の置かれた状況を描写しただけなのに、どうしてこうなるんだ。まさか担当がリアルタイムで私のSNSをチェックしているなんて思ってもみなかった。見ろ、おかげで隣のトレイまであやうく飛沫がいきそうだったじゃないか。
カフェの店内は午後の穏やかな時間帯で、暇している客やノマドワーカーと思しき人々がそれぞれのテーブルでパソコンを広げたり、スマホをいじったりしている。BGMにはどこかの有線が流れ、ティーセットのカチャカチャという音が時折響く。そんな日常の空間に、私は非日常な感覚におちいって、そして動揺している。おかげでしたくもないコミュニケーションとやらをしなければいけない羽目になった。恨むぞ担当。
「すいません、粗相をいたしました。」
こう言って、自分のせいで汚してしまった机をお手拭きで掃除していく。テーブルには薄っすらと水滴の跡が残っており、丁寧に拭き取る。ふと、隣の客を見ると掃除している私の様子をじっと見つめていた。手にはスマホを持っているが、明らかにスマホを操作していない。
これはまずい。もしかして思った以上に私の粗相が相手の癪に障ってしまったのか。考えてみればこんな時間にカフェに来ている客なぞ、時間に多大な余裕を持つものか、それとも定職についていない自分のような厄介者ではないのか。いや、そう考えるのは短絡的すぎるだろう。もしかしたら休憩中の会社員かもしれないし、学生が勉強の息抜きをしているのかもしれない。
私があらかた机を掃除し終わっても、その客は私を見続けていた。視線が気になって仕方がない。ああ、やはり机でなく服か荷物にでもかかってしまったのだろうか。隣の客を周りを一見すると何も濡れていないようだが、もしかしたら見えないところに飛沫が飛んでしまったのだろうか。これからどんなことを言われるんだろう。そしてどんな要求をされるのだろうか。クリーニング代を請求されるのか、それともなにか言いがかりをつけられるのか。
お手拭きを自分のトレイに置き、意を決して隣の客に話しかけた。
「あの、もしかしてそちらのものを汚してしまいましたか?」
そういうと、隣の客はようやく頷いて、くすくすと笑い始めた。その笑い声は鈴の音のようで、なんだか悪意がないことだけはわかった。
「いいえ。『そそう』なんて聞いたことなかったですから。なんだろうなあ、と思っただけですよ。」
なるほど、そういうことか。これでも文章書きの端くれなのだから、表現のしかたについては考えたほうがよいのかもしれない。「粗相」という言葉が現代の若い人には馴染みがないのは当然だ。反射的にさっきのセリフが出たのは、以前に連載していた上流階級もののせいだ。あれは珍しく筆が乗ったもので、貴族の生活を丹念に調べて書いた自信作だった。登場人物たちの言葉遣いや立ち居振る舞いまで細かく設定し、読者からの評判も上々だった。
が、あいにく挿絵のほうで問題があって結局昨年に打ち切られてしまったんだよなあ。担当のイラストレーターさんが体調を崩されて、代役の方との相性が悪かった。作品の雰囲気を理解してもらえず、キャラクターデザインが原作とかけ離れてしまい、読者からのクレームが相次いだのだ。ああ、こんなことならタブレットの中で完結させてしまって、世に出さなかったほうが良かったんじゃないか。でも世の中に作品を出さないと生きられない。私はそういう生物なのだ。誰かに読んでもらわなければ、物語を書く意味がない。
「ところで、タブレット閉めたほうがいいですよ。」
隣の客に指摘されてようやく気づいた。タブレットには書きかけのプロットが付箋状に書かれていたが、それ以上の情報はない。キャラクター設定やあらすじの断片が色分けされた付箋で整理されているものの、一見しただけでは内容はわからないだろう。しかし、先程担当から来ている通知はばっちりと目立つフォントと色で画面上に表示されていたのだ。メッセージアプリの通知バナーが画面の上部に鮮やかなグリーンで点滅している。
「ああ、ありがとうございます。」
慌ててタブレットの画面をオフにする。指が微かに震えているのは、きっと飲み物のせいだ。そう思いたい。
「ラブコメ勉強中、ですか。」
なんてことだ。話を続ける気なのか。しかも興味深そうな表情を浮かべている。もう私は今日のコミュニケーションポイントを使い果たそうとしているのだが。朝のコンビニでの「ありがとうございました」、昼食時の食堂での注文、そして今のこの一連のやり取り。しかも備蓄まで消耗しようとしているのだぞ。明日の分まで前借りしてしまいそうだ。これは撤退も視野に入れねばなるまい。
「お気になさらず。」
できるだけそっけなく答えて、視線を隣の客から自分の机に戻そうとする。しかし、隣の客は諦める気配がない。
「勉強するには教科書が必要ですよね。」
そう言って、隣の客は自分の読んでいたスマホを片付け、横にあるポーチからブックカバーのついた本を出してきた。カバーには可愛らしい模様があしらわれている。カバーだけなので中身は想像しかできないが、すくなくともハードSFではなさそうだった。彼女はその本と、自分の伝票を私のそれと重ならせるように近づけて、こう申し出てきた。
「一緒に勉強しませんか?」
その瞬間、その場の空気が変わったような気がした。これはいわゆる転換点だ。ウィンドウエフェクトで言えばモノトーンになっている状態だ。多分選択肢まで出ているに違いない。
これが、その子との出会いである。
『ラブコメ勉強中のところ恐れ入ります。』と担当から連絡が来た。 @testingdag
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