濡れTシャツダイエット狂騒曲

酒囊肴袋

第1話

後に「濡れTシャツダイエット」と呼ばれるようになるダイエット法が世に知られたのは、うららかな春の昼下がり、主婦層をターゲットにした情報番組でのことだった。

「さあ、今日ご紹介しますのは、夏を先取り!夢のようなダイエット法、その名も『エバポレーション・ダイエット』です!」

軽快な音楽と共に、白衣を着た恰幅の良い男がスタジオに登場する。彼の名はDr.冷志ひやし。その道の権威、というよりは、人の良さそうな近所のおじさんといった風貌だ。

「Dr.冷志、エバポレーション…とは、つまりどういうことなんでしょう?」

きらびやかな衣装に身を包んだMCが、完璧な笑顔で尋ねる。


「はい。エバポレーション、すなわち『蒸発』です。この特殊な繊維で作られたシャツを水で濡らして着る。すると、水分が蒸発するときの気化熱で、体の表面温度がぐっと下がるんです」

スタジオのモニターには、濡れたシャツを着た人の体表面温度が赤外線カメラで映し出された。確かに、濡れた部分の温度が明らかに低い。

「仕組みは単純です」とDr.冷志。「体は『冷えたから温めねば』と反応し、ふるえ熱産生――いわゆるシバリング、さらに非ふるえ熱産生――褐色脂肪組織の代謝などが動いて、カロリーが消費されるのです」

「なるほどー!つまり、濡れたシャツを着ているだけで痩せられると!」MCが感嘆の声を上げる。

「ええ。ただし!」Dr.冷志は人差し指を立てて、真剣な表情を作った。「これはあくまで気化熱を利用したものですから、夏場限定と考えてください。長時間続けると低体温症のリスクもありますし、免疫力も低下しかねません」

「寒いときにやったら、ただ風邪ひいちゃいますもんね!」

スタジオが笑いに包まれる。Dr.冷志も「その通り!」と相好を崩した。


番組では特許製法の「エバポレーション・シャツ」も紹介された。特殊な繊維構造により、水分の蒸発効率を最大化し、かつ肌触りも考慮された高機能ウェアだった。冷志は開発に三年を費やしていた。

しかし、番組終了後の反響は思わしくなかった。視聴者からの問い合わせはほとんどなく、わずかに「面白そうだけど、濡れた服なんて着たくない」「夏場だけって制限が多すぎる」といった声が聞こえてくるだけだった。

五月に入ると、「エバポレーション・シャツ」の売上は予想を大幅に下回った。製造元のアクアテック社の営業部長は冷志に電話をかけた。

「先生、申し訳ございませんが、在庫処分をさせていただくことになりました。ワゴンセールでの販売となります」

冷志は受話器を握りしめた。「そんな……まだ夏にもなっていないのに」

「消費者の皆さん、やはり濡れた服を着るということに抵抗があるようで……」

六月、夏を待たずに全国の衣料品店や量販店で「エバポレーション・シャツ」は叩き売りされた。「涼感ウェア大処分セール!」の看板の下、一枚398円で投げ売りされる特許製法のシャツを見て、冷志は深くため息をついた。三年間の研究と開発費用は水の泡となった。



その年の夏は、観測史上最も暑い、と誰もが口にするほどの猛暑だった。連日のように熱中症警戒アラートが鳴り響き、アスファルトは陽炎で歪んでいる。しかし、深刻な電力不足から、官公庁や多くの企業では空調の設定温度が28℃に義務付けられていた。

霞が関の中央官庁で働く田中のデスクは、卓上扇風機が力なく首を振っているだけましだった。長年のクールビズ推奨で、服装はかなり自由になっている。ポロシャツにチノパンが当たり前の光景だ。それでも、じっとりと背中に汗が滲む。

「これじゃ仕事にならん……」

田中がぼやいたその日、彼は妻に頼まれた買い物のため、帰りにディスカウントストアに寄った。ワゴンの底、赤札の奥に、どこか見覚えのある光沢のシャツが眠っている。「エバポレーション・シャツ」。値札は半額のまた半額、398円。

春先のテレビ番組をぼんやりと覚えていた田中は、藁にもすがる思いでそれを一枚手に取った。ダイエットなんてどうでもいい。ただ、涼しくなりたい一心だった。

翌日。給湯室でシャツを濡らし、軽く絞ってからおそるおそる袖を通す。ひんやりとした感触が背筋を駆け上った。デスクに戻ると、気化熱が体温を奪っていくのがわかる。

空調服のようにファンが唸ることも臭くもない。汗でシャツが肌に張り付く不快感もない。特許製法とやらは伊達じゃないらしかった。

「田中さん、なんか涼しそうな顔してません?」

隣の席の同僚が、訝しげに尋ねる。田中が事情を話すと、同僚は目を輝かせた。

「それ、どこで売ってるんですか!?」

噂は燎原の火のように広まった。数日後には、フロアの職員の半数以上が、濡れた「エバポレーション・シャツ」を着て黙々とキーボードを叩くという、異様な光景が生まれていた。

そんなある日、テレビクルーがそのオフィスに取材にやってきた。猛暑の中での働き方改革、という特集らしい。レポーターの顔を見て、田中は息を呑んだ。あの春の情報番組で、Dr.冷志に質問していた彼女だった。

スタジオと中継がつながる。画面の隅に映るスタジオのMCから、レポーターに指示が飛んだ。

「そのシャツ、確かダイエット用品でしたよね?効果があるか、ぜひ聞いてみてください!」

マイクを向けられたのは、いかにもダイエットに励んでいそうな、少しふくよかな男性職員だった。彼は満面の笑みで答えた。

「ええ!もう最高ですよ。デスクワークをしているだけで痩せるなんて、夢のようなダイエットです!」

その一言が忘れられた発明に、遅れてきた春――いや、真夏の繁忙をもたらした。



番組が放送された翌日、「エバポレーション・シャツ」のメーカーの電話は鳴り止まなかった。ワゴンセールで在庫を叩き売ったはずのシャツに、注文が殺到したのだ。倉庫の奥で埃をかぶっていた在庫は瞬く間にはけ、工場は24時間体制でのフル稼働を余儀なくされた。

街には、濡れたTシャツを着た人々が溢れ始めた。涼を求める老人、流行りに乗りたい若者、そして、本気で痩せたいと願う人々。目的は様々だったが、彼らは皆、一様に濡れたTシャツを身にまとっていた。

あるワイドショーでは、高級リゾートホテルのプールサイドが映し出された。色とりどりの水着を着た男女が、なぜかその上から判で押したように濡れたTシャツを羽織っている。それはもはや、夏の新しいファッションですらあった。

利用者の母数が増えれば、当然「結果」を出す者も現れる。

「#濡れTシャツダイエット 始めて1週間で2キロ減!」「マジで効く!」「クーラー代も浮くし一石二鳥!」――真偽不明の口コミが踊る。

SNSには成功体験が溢れ、ハッシュタグはトレンドの上位に躍り出た。昼食を軽くした人、通勤を階段に変えた人、毎日のカフェラテを無糖の麦茶に切り替えた人――あらゆる“周辺の努力”が、「エバポレーション・シャツ」とセットで語られた。因果と相関は、真夏の太陽の下で気持ちよく蒸発していく。

ブームの過熱は、新たな市場を生んだ。すぐに「エバポレーション・シャツ」の偽物が出回り始めたのだ。それらは単に乾きやすい化学繊維で作られただけの粗悪品で、もちろん、Dr.冷志が口を酸っぱくして訴えていた低体温症のリスクに関する注意書きなど、どこにも記されていなかった。



秋風が吹いた。長い長いセミの合唱はやみ、台風が去って、空は高くなった。クールビズも終わる。

オフィスから濡れTシャツの姿は消えていた。空調の設定は少し下がり、保温のマグカップが机に並ぶ。

乾いた風が心地よい季節に、好き好んで体を冷やす者はいなかった。

だが、街にはまだ、季節外れの濡れTシャツを着続ける者たちがいた。ダイエットに成功し、その効果を信じて疑わない人々だ。彼らは、秋の冷たい風に吹かれながら、健気にもシャツを濡らし続けた。

案の定、健康被害を訴える人々が続出し始めた。春先の情報番組でMCが笑い飛ばした通り、ただ風邪を引いただけの人がほとんどだったが、中には肺炎を起こして入院する者まで現れた。

「だから、あれほど夏限定のダイエット法だと言ったのに……」

ニュースを見ながら、冷志は自宅で深いため息をついた。彼の元には、なぜリスクをきちんと説明しなかったのかというクレームの電話までかかってくる始末だった。善意から生まれた発明は、いつしか彼のコントロールを離れ、社会を巻き込む狂騒曲を奏でた末に、多くの混乱だけを残して過ぎ去っていった。


……そして、一年が過ぎた。

アスファルトがじりじりと焼ける、新たな夏がやってきた。人々は去年の騒動など忘れたかのように、アイスコーヒーを片手に日陰を求めて歩いている。

その中に、ぽつり、またぽつりと、濡れたTシャツを着る人々が現れ始めていた。それはもはやダイエットのためではないのかもしれない。ただ、あの夏の涼しさを、体が覚えていただけなのかもしれない。

Dr.冷志の発明した奇妙なシャツは、こうして日本の夏の新たな風物詩として静かに定着していくのだった。

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