理外の魔術師

双樹こうろ

第1話 黄昏の指輪

 静寂と叡智の象徴であったはずの魔道都市の心臓、賢者の塔は、今や阿鼻叫喚の地獄と化していた。天を衝く白亜の塔には無数の亀裂が走り、燻る黒煙が悲鳴と共に虚空へと立ち上っている。塔の魔術師たちが幾世代にもわたって練り上げた防衛結界は、まるで薄紙のように破り去られ、その残滓が絶望の光を散らしていた。


「無様ね、人間。あなたたちの魔力は、私の糧となるに相応しいかしら」


 かつて賢者たちの議論が交わされた叡智の間に響く声は、鈴を転がすように美しいのに、魂を凍らせるほどに冷たかった。重厚な意匠を施した「賢人の玉座」に身を沈めているのは、魔王の一柱ひとはしら、リリアーリア。悪魔の象徴である二本の滑らかな角を頭に戴いていなければ、誰もが神の御業と見紛うほどの絶世の美女。だが、その深紅の瞳には、足元で血を流し呻く老魔術師への憐憫など微塵も映っていなかった。彼女が率いる魔族たちは、抵抗する者を容赦なく屠り、生き残った者たちから生命線である魔力を、熟れた果実をもぐように奪っていく。

 賢者の塔に所属する魔術師の一人、ゼカロンもまた、魔力を封じる枷をはめられ、為す術なくその屈辱に耐えていた。やがて彼は他の魔術師たちと共に、塔の地下深くにある牢獄へと乱暴に放り込まれた。ひんやりとした石の壁、錆びた鉄格子、そして魔力の源流を断たれたことによる深い無力感が、ゼカロンの心を冷たい闇に突き落とす。


(ここまでか……。我々が積み上げた知識も、血の滲むような研鑽も、絶対的な力の前には、これほどまでに無に等しいというのか)


 絶望が思考を塗り潰そうとしたその時、彼の魂の奥底で、忘れかけていた一つの光が灯った。それは、誰にも明かしたことのない、彼だけの秘密。魔術とは全く異なることわりで発動する、異能の力。


 ――「」。


 あらかじめ印をつけた物体を、どれほど離れていようと、どのような障害があろうと、手元に呼び出す能力。この力は、魔力とは無関係だ。つまり、魔力を封じるこの地下牢にあっても、ゼカロンはただ一人、まだ牙を隠し持っているのだ。


(……あれを、呼び寄せるしかない。最後の、そして唯一の希望を)


 ゼカロンは覚悟を決めた。彼が「転送」の印をつけた最も強力な遺物。塔の誇る四賢者をもってしても、そのあまりの危険性ゆえに塔にある宝物庫の最奥に封印されている禁断の古代アーティファクト。

 意識を集中させると、彼の右手の甲に淡く光を放つ印が浮かび上がる。空間が僅かに歪み、冷たい牢獄の空気とは不釣り合いな、古の魔力を帯びた金属の塊が、音もなく彼の掌中に出現した。

 黒曜石のような闇を宿す金属に、黄昏色の宝石が埋め込まれた指輪。その名は「黄昏の指輪」。上位悪魔を召喚し、その魂を縛り、使役するという、神の領域にさえ踏み込む禁断の魔道具だ。


 指輪を左手の中指にはめると、ずしりとした重みと共に、脳に直接語りかけてくるような強大で傲慢な意思を感じる。しかしゼカロンは冷静だった。この指輪の力をもってしても、格が違いすぎる魔王を従えることなど不可能だ。リリアーリアに対抗するには、それ以上の何かが必要になる。


(ならば、策を弄するまで)


 ゼカロンは指輪に精神を注ぎ、古の契約言語を紡ぎ始めた。それは枷により封印されているはずの彼の魔力を造作もなく削り取り、さらには、生命そのものを燃料とするかのような激しい消耗に、奥歯を強く噛みしめる。やがて指輪の宝石が眩い光を放ち、彼の眼前に幾何学的な文様を描く魔法陣が、影を編むようにして展開された。

 魔法陣の中心から、黒い霧と共に一人の男が現れる。隙のない仕立ての執事服に身を包み、背筋を完璧に伸ばして立つ姿は、まるで高貴な家の従者のようだ。だが、その額からは一本の鋭い角が突き出し、穏やかな笑みを浮かべた口元とは裏腹に、瞳の奥には底知れない知性と狡猾さが渦巻いていた。


「お呼びにより参上いたしました、我が主。私こそは上位悪魔ラドードア。以後、お見知りおきを」


 丁寧な一礼。しかし、その態度はゼカロンの力量と魂の質を、品定めしているようでもあった。


「ラドードア、お前を召喚したのは他でもない。魔王リリアーリアを打倒するためだ」


「ほう。魔王、ですか。それはまた、随分と大きな目標をお持ちで」


 ラドードアは楽しげに目を細めた。


「我が主よ、いかにこの私といえど、魔王に正面から挑むのは無謀というもの。そして、この『黄昏の指輪』の現在の力では、私を完全に御しきることも難しいでしょう」


「分かっている。だからこそ、お前の力が必要なのだ」とゼカロンは続けた。「お前には、この塔にいる魔族たちから、奴らにしか知られていない『闇の術式』を盗み出してほしい」


 ラドードアの眉がぴくりと動いた。


「闇の術式……。なるほど。魔力を根源から覆し、世界の理すら書き換えると言われる我ら悪魔のみが扱える禁断の知識。しかし、それはリリアーリア様が最も厳重に管理しているはずですが」


「この指輪には、まだ機能していない古代の魔術回路が眠っている。闇の術式を解読し、それを起動させることができれば、この指輪は魔王にさえ対抗しうる力を得るはずだ。そのための鍵を、お前に取ってきてもらう」


 ゼカロンの揺るぎない瞳を見て、ラドードアは初めて興味深そうに口角を上げた。絶望的な状況で、悪魔を召喚し、さらにその悪魔を利用して禁断の知識で活路を見出そうとする人間の胆力。それは、彼が悪魔として好む魂の輝きだった。


「承知いたしました、我が主。実に心躍る計画です。このラドードア、主の知略の駒となり、見事、闇の術式をその御手にお届けいたしましょう」


 深々と一礼すると、ラドードアの姿は影に溶けるようにして地下牢から消え失せた。残されたゼカロンは、これから始まるであろう反撃の序章を思い、静かに指輪を握りしめる。

 ラドードアは、影から影へと渡り、魔族たちの警戒網を巧みにすり抜けていく。彼の悪魔としての能力は、気配の遮断と精神への微弱な干渉。それは、力で突破するのではなく、水が隙間を流れるように目的地へと到達するためのものだった。

 やがて彼は、リリアーリアが拠点としている塔の最上階、賢者の塔の中心部、叡智の間にたどり着く。そこには、魔族の兵士が厳重な警備を固めていた。だがラドードアは、彼らの意識の隙間を縫って、まるでそよ風のように室内へと侵入する。

 目的の術式は、黒い革で装丁された古文書「黒の書」に記され、リリアーリア自身の魔力で封印されていた。リリアーリアを含む魔王たちが常に手の届く範囲に「黒の書」を置いているのは、魔王である証も兼ねているからだ。ラドードアは懐から取り出した特殊な短剣で封印に触れる。それは魔王の魔力の流れを制御する複雑な術式を組み込んだ特別製の短剣であった。僅かな音と共に封印が解ける。彼は素早く「黒の書」の内容を記憶に焼き付けると、再び短剣を書にかざして封印を復活させる。そして、影に紛れてその場を後にした。

 地下牢に戻ったラドードアから闇の術式を受け取ったゼカロンは、すぐさまその解読に取り掛かった。そこには、人間の魔術体系とは全く異なる、冒涜的で、しかしあまりにも強力な力の法則が記されていた。理解が及ばぬ部分をラドードアが補い、二人は夜を徹して術式の核心に迫っていく。

 そしてついに、ゼカロンは黄昏の指輪に隠された魔術回路を起動させるための儀式を始めた。闇の術式を詠唱すると、牢獄の空気が震え、指輪が周囲の光を喰らうように禍々しい輝きを放ち始める。ゼカロンの生命力が奔流のように指輪に吸い上げられていくが、彼は倒れることなく耐え抜いた。

 やがて光が収まった時、彼の指にはめられた指輪は、その姿を変えていた。黄昏色の宝石は血のように赤黒く染まり、指輪全体から放たれるオーラは、魔王のそれに匹敵するほどの圧を秘めていた。


「さあ、始めようか。ラドードア」


 ゼカロンが鉄格子に手を触れると、指輪の力に呼応した闇の魔力が迸り、鉄格子は影の糸のように解けて塵と化した。


「我々の反撃を」


 執事悪魔は、その言葉に恭しく頭を垂れた。その瞳には、これから始まるであろう主の闘争劇に対する、最高の期待が込められていた。

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