三十路童貞、年下上司に狙われる。
稲井田そう
カチンときちゃった
若くてかわいい女が苦手だ。
僕なんか人の顔にどうこう言える立場じゃないのは十分わかってるけど、お前なんか相手にされるわけないのに、という嘲笑されかねないような高嶺の花が横にいるのは緊張する。それを狙っているからと誤解されるのも中々にキツいし、そうした曖昧さの中の挙動不審な態度についてキモいと思われる三重苦だ。だから近づかない。そしてこれを言うとお前みたいな分際で人間の容姿をジャッジしているのか、と言われるし、実際その通りだと自分でも思うので苦しい。
だから、
◇◇◇
大学を卒業してそのまま就職する。できれば公務員がいいけど、無理そうなら一般企業で。きっとなんとかなるはず。高望みさえしなければ。
大学に入学してすぐの頃はそう信じて疑わなかったけど、公務員試験を受けながら民間企業の併願も、と安全策を取った結果、いろいろと破綻し僕は概ねブラック企業と呼ばれるような会社に就職した。就職活動がキツかったのもあり、やっと決まった、就職活動から抜け出せた仕事だからだと数多の理不尽やパワハラに耐えたものの、なんか違う、辛い、で転職活動に踏み込み、最終的には頑張った大学の受験勉強、せっせと授業に出席して課題をこなし卒業した大学の学歴とはつり合わない場所に転職した。
当然、僕は新卒だったころからだいぶ年数が経過している一方、転職先では新卒からずっとそこで働いていた人間がいるわけで。ただ、別にそこまで年齢がいってるわけでもなかったから、まぁなんとか、と思っていたら普通に自分より年下の女の子──揺野の元につくこととなった。いわゆる、年下の先輩だ。
私服勤務可の職場で、黒のジャケットとスラックスを纏い、低めのヒールで社内を早足で巡り、せっせと指示を出す。叱るときには叱り、褒めるときには褒めるけど、わざとらしさがない。休憩時間は上下関係なく談笑し、男性社員女性社員問わず社交性を持ちながら、すごく明るいとも落ち着いてるとも言い難い絶妙な雰囲気を持つ。浮いてもいないし嫌われてもいないしむしろ好かれてるだろうに、キラキラした人気者という感じもない。役職問わず、年上年下関係なく、どんなに仲が良くても全員敬語。礼儀正しいのではなく「めんどうくさいから」という理由で、それを明け透けに公言する。
一言であらわすならば、一言で紹介しづらい女。
容姿もそうだった。ここがこう、と言い難い。表情があるときは、若くて人当たりが良さそうで、老人に印象を聞けば孫に欲しいと言いそうだし、子供に印象を聞けば先生っぽいと言われそうな、無防備と受容性がありつつも、無心で仕事をしているときは、全部シャットダウンしてそうな冷たそうな雰囲気がある。
揺野はよく社内の人間と話をするので、私生活の情報はほぼ駄々洩れだった。
学生時代はバスケをしていたとか、会社から五駅ほどの場所に住んでいるものの、最寄り駅からは遠く坂道が多いとか、住んでいるアパートに蛇が出るとか、台所のシンクだけは綺麗にしているとか。
ほぼ自動的に入ってくるわけだけど、入社し、揺野の下について三か月が経過してもなお、揺野の扱いが本当に分からなかった。扱い方というか、振る舞い方が。
年上に対しては相手を立てつつ適当にのせておく。自分で一人で出来るところでも頼られたそうなポイントを見つけて聞いて頼ったりとか、対して興味もないスポーツの話題にのったりとか。知らないフリも有効だ。年下に対しては指導とまではいかずとも聞かれたことをウザがられない程度に伝える先輩キャラでいい。別に誰も僕の一挙一動で人生変えるわけでもないし一時間後には忘れられている。
でも、揺野は年下で先輩なので、マニュアルなしに車を運転しろと言われたような放り投げられ感がある。まわりは台本があるのに即興劇をしろと自分だけ何の準備もせず放り出された感じ。自分の今までしてきたコミュニケーションが全部無駄で、無駄どころか結局中身の無い人間だよと教え込まれ、そのまま対処法も教えられず去られるような。
そのため、どうしていいか分からない距離でうっすら、その時その時でそれっぽく振る舞っていたら、会社の中で揺野と最も関わらないのが直属の部下になり揺野から指導されている僕という珍妙な状況になっていた。
だから、ある意味運命だったのかもしれない。
僕が会社そばのコンビニでセルフレジの列待ちをしているとき、揺野と出会ったのは。
◇◇◇
その日僕は、出社前、昼食のパンを買うためにコンビニに来ていた。朝は食べる気がしないし、朝の眠気が地続きで昼に繋がっているので、焼きそばパンとか卵サンドなど総菜パンはハードルが高い。なので心理的負担のないパンを適当に選び、飲み物のコーナーへ向かうと、揺野がいた。なので僕は気付かれぬ内に、さっと棚に隠れ、揺野が移動するのを待った。
会社の中では普通に話ができるけど、会社の外で社内の人間に会うのはしんどい。
相手が誰であろうとだ。
そもそも僕はセルフレジが出始めてから、仕事以外で他人との会話が完全に消えたタイプの人間である。
今までは仕事とコンビニとスーパーくらいでしか声を発しない中、セルフレジでコンビニでの発声手段を割愛し、最初は楽だなんて思っていたけどスーパーでのやり取りのハードルが変に高くなった。
その結果、仕事以外で喋る機会が減り、仕事の自分と素の自分がどんどん乖離していってる気がして、その乖離がなにかの病気に繋がってくるんじゃないかと不安に思うけど、人と話がしたいとか遊びたいという感情は出てこない。一人行動が辛いとも思えず、昼食は一人で食べたいし映画も一人で見たい。仕事でもないのに会社の人間と会いたくない。
自分でもなんなのかよくわからないが、他人と一切関わらないと決めて孤独を貫く強さもないので、会えば無視も出来ず、こっそり棚に隠れ揺野がいなくなるのを待つというこんな有様になっている。
僕は揺野がいなくなったか確認する。揺野は新商品のお茶を見ていた。買って味を社内の人間と話すか、もしくは見かけたことを誰かと話すんだろう。容易に想像できた。
何となくの持論だけど、人間関係というものは10段階くらいに分かれていて、普通の人見知りは2の段階から危うく、体育会系の中心に君臨するみたいなコミュ強みたいなのは1から10までそつなくこなせる、みたいな階層分類がある。
そして僕はおそらく1から3くらいまでは他人より上手くできて、でもそれがとんでもなく気力を消耗し、挙句の果てに4を越えてくると誰よりも上手くできない負債というか呪いにかかっている。
理由は多分、根が暗いのと根が暗いなりに社会に適応しようと努力した結果、小手先のテクニックもどきみたいなのを身に着けられたはいいものの基礎の地盤がないままにそれを手にしてしまったせいで、肝心の足場がない、みたいな状況だ。
基礎の地盤を手に入れるには小手先のテクニックもどきを手放さなければないけど、この年に至るまでそれを抱えて生きてきたからできない。
なおかつこのテクニックを失くせば仕事が立ち行かなくなるので、消耗戦のような今に至る。
そして1から10までのオールラウンダーが揺野だ。
そこまで体育会系の職場じゃないし派手な場所でもないので、扱いづらい人間は前職よりいないだろうと踏んでいたけど、思わぬトラップだった。それも本人の性格は問題ないのに、あり方とタイプが露骨に噛み合わないというかやりづらいパターンだ。だから、会社の人間と会いたくないのはもちろんのこと、揺野には余計会いたくない。
僕は揺野を避けるようにしてペットボトルを手に取り、セルフレジに向かう。
そのまま順番待ちをしていると、すっと大胆に横入りが発生した。パーマをあてたマッシュヘアの、僕より若く体格のいい男だった。いかにも女に好かれそうな顔をしてる。僕が見えていないのか、横入りしても問題がないと舐められたかは分からない。ただ、白のワイシャツにグレーの質の良さそうなベストとセットのスラックス、磨かれた靴などの装いから、後者だろうなと諦めや嫉みに似た感慨が浮かぶ。
後ろを見ると、並んでいる人間がいた。僕に注意しないのか、と促すように僕を見てきたけど、無理だと思う。後ろの人も知らない人だし、刺すような視線が痛いけど、前も後ろも他人なので、耐えてこの場をやり過ごすことにする。そして僕は知らないふりをしようとスマホを取り出そうとした──その時だった。
「列こっちですよー並んでるんで」
さっと目の前に横切り、女が男に声をかけた。横入りした男に声をかけたのは、揺野だった。
「え、いや、並んでたっすよ」
男はこっちに振り返り、僕を見ていけると踏んだらしい。半笑いで嘘をつく。しかし揺野は「いや私並ぼうとして横入りしてたの見てたんで、一緒に並びましょ」
そう言って、有無を言わさぬ調子で揺野は男を見た。揺野の冷えた空気にあてられたのか、男はばつが悪そうにセルフレジではなく有人レジに向かっていく。周囲の空気が、少しだけ和らいだ気がした。助かった。ただ、あまりにも不甲斐ない現場に、揺野へどう声をかけていいか分からない。僕は注意できなかったし、知らないふりで逃げた。責められるだろうか。不安を覚えていれば「すみません。これ買っておいてください。あとでお金払うので」と揺野は特に何か話すでもなく、僕へ常温のペットボトルを渡し、店を出て行く。
嵐みたいな出来事に驚きつつ、セルフレジでさっさと買い物をしてコンビニを出ると、揺野が「ありがとうございます、お金です」と金額ぴったりの小銭を出してきた。遠慮したほうがいいのか分からず僕はそのまま受け取り、「さっきはすみません」と謝罪する。「なにがですか?」と、揺野は不思議そうな顔をした。
「いや……注意して頂いて」
「ああいうの成功体験詰ませておくと調子乗るので」
小馬鹿にするみたいな言い方だった。僕に対してではなく、横入りをした男に対してだろう。未だ有人レジに並ぶ男に軽蔑の眼差しを向けている。
揺野が誰かに向けてこんな風に蔑むのを見たのは初めてだった。なんとなく、負の感情みたいなものは無さそうなイメージだったから驚いていると、揺野は「でも、注意しないほうがいいと思いますよ」と付け足す。
「今ほら、揉めたら他人が動画撮ったりしますし、危ないですからね」
「なら、揺野さんも危なかったのでは」
「カチンときちゃった」
ふ、と揺野は自分で言って自分で笑う。
誰に対しても敬語で話す彼女が、敬語を外した瞬間。いわば事故。イレギュラー。
意味なんてないだろうに、やけに印象的で。
自分でも馬鹿みたいだと思うけど、そうしたことがあったからか、揺野と初めて会った日と僕が感じるのは、僕の転職初日ではなく、コンビニ前でそうやって話をした日、と定義づけされてしまった。
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