神の御使いは、正義の行使に躊躇いが無い

井戸 正善

1.異世界転移、背後霊付き

 日本全国に剣道・柔道の道場数は大体四千四百弱。

 他にも空手や合気道などもあるし、特に流派に縛られない護身術道場なども含めると無数に存在する。

 中でも古流武術を細々と継承している道場は大々的に入門者を募集しているわけでもなく、次第に数を減らしている。


 大学生の伊尾真道いおしんどうが通っている道場は、その中でもまだ経済的に余裕がある方であった。

 道場主が大通りにいくつかのビルを持っているオーナーであり、武道場を借りるか賃貸で道場を作って指導を行う場合がほとんどの都内で、珍しく専用の道場を持っていた。

 六十帖ある広々とした道場のど真ん中で、真道がたった一人、汗だくで転がっていられるのも、利用時間を気にしなくて済むからだ。


「疲れた」

 汗でべたりと額に張り付いた髪を掻き上げて、荒い息を落ち着かせながら呟く。

 広い道場で一人しかいないはずだが、真道の言葉に返事をする者がいた。

「情けないのう。わしの若いころなぞ、稽古の仕上げに野山を駆けまわっておったぞ。最後には川に飛び込むんだが、これが気持ちよくてな」

「若い頃って、何百年前だよ」


 上半身を起こして胡坐をかいた真道が見上げると、そこには上半身のみの鎧武者の亡霊が浮かんでいる。武者は髭面をしごいて首を傾げた。

「はて。今から八百年くらい前になるかのう」

「ジジイの昔話ってレベルじゃねえな……」

 真道は傍らに置いてた木刀を拾って、傍らに置いた。


 正座した膝と同じ線上に鍔が来るように、木刀を右へ置く。

 深い深呼吸の後、道場正面に一礼。

 ここまでが、真道が数年続けている朝稽古のルーティンである

 真道がちらりと傍らを見ると、そこには正面に向けて両手を合わせている背後霊の姿があった。


「……行こうか」

「うむ」

 シャワーを浴びて、学校へ向かう。小学生から中学・高校とすすみ、大学生になった今でも続けている日常。

 地下鉄の乗車駅は同じ。乗る電車は変わった。


変わらないものが、もう一つ。

「最近は身体もできたきたようだし、そろそろ奥義おうぎ習得の稽古を始めても良いのではないか?」

「良くねぇって」

 背後霊からの『奥義習得』の勧め。


 いつもの車両。前から三両目に乗り、今日は偶然空いている席を見つけて座る。

 景色が流れ始めても、真道はあまり興味がない。スマホをじっと見つめる趣味も無い。ただただ、ぼんやりと正面に視線を向けて、車両全体の人々を観察する。

 これは真道の癖のようなものであった。

 人々を見回して、多くの人々が生きていることが当たり前の世界が、不思議でありがたいといつも考えていた。


 ふと、近くに老婆が立っているのを見て、真道はするりと立ち上がった。

「どうぞ」

 席を譲ろうとしたところで、近くにいた若い男がどっかりと割り込んで座り込んだ。

 当たり前のような顔をして、真道の顔を見ることも無い。

 困惑しながらも諦めた表情をする老婆すらも見ないで、真道は右手を若い男に伸ばした。


「やりすぎるなよ、真道」

 虎島の言葉を無視して、真道の手は男の襟首を掴んで、床に放り捨てた。

 周囲のざわめきも、何が起きたかわからないという表情で床に手を突いた格好の男も、全てが無いもののように、真道は手振りで老婆に席を勧めた。

 最早怯えていた老婆は、断り切れずに腰を下ろした。


「あ、ありがとうございます……」

「いいえ」

 無表情なまま吊革に手を掛けた真道は、ようやく立ち上がった男に視線を向けた。

 怒りでも憐憫でもない、感情の読み取れないまっすぐな視線は、まるで何の価値も無い道端の石ころを見ているかのようだった。


「……ちっ」

 舌打ちをして離れていく男に、真道はもう興味を失くしていた。再び、視線は窓の外へと移っている。

「やれやれ。もう少し言葉での交流というものをだな」

「あれに言葉は必要ない。どうせ聞く耳は持っていない」


 真道は人並みか、それ以上に正しいことを行おうという意思がある。

 そこに世間体や周囲の視線という外部要因に対する遠慮や躊躇が一切無いのが問題だ、と虎島は考えていた。

「行動力は、我ら鎌倉の武士としては喜ばしいのだがのう」

 現代を知る武士である虎島としては、そこが子孫の将来に対する不安の種である。


 真道は、正義に躊躇が無いのだ。


 大学前の駅について、改札を出た構内の定食屋で朝定食を食べる。ファーストフードのこともあるが、背後霊が「バランスの良い食事をとれ」とうるさいので、十日に一度くらいまでに抑えている。

「何度も言うけどさ。奥義ってあれだろ。相手を確実に仕留める必殺剣ってやつだろう」

「おうとも。わしはその技で以て、戦場を駆け抜けたものよ」


「いらねぇって」

 真道が漬物を箸に摘まんで口に放り込み、麦飯で追いかける。塩気が美味い。麦飯の歯ごたえが心地よい。

「今の世の中、そんな技を身に着けてどうするんだよ。何の役にも立たねぇよ」

「技を磨き、戦に備えるのは武士の本懐であろうに」

「武士じゃねぇっての」


 周りからすれば独り言を言っているようにしか聞こえないが、真道はすっかり慣れていた。こんな奴は都会にごまんといる。思春期を過ぎたころには、そんなふうに割り切っていた。

「あのな。俺は普通の学生なの。学生がそんな技術持ってどうするんだよ。技があるから人を斬ってみたい、なんて考える奴は異常者だろ。そんな奴いねぇよ」


 ここの煮物は美味い。家庭料理の記憶が薄い真道にとっては、貴重な味である。

「学生さん。これもお食べ」

「あ、すみません。ありがとうございます」

 年老いた店員は真道の独り言を気にする様子も無く、他の常連にそうするように、小皿にのせた高野豆腐を置いた。


「ふむ。美味そうだのう」

「美味いよ。背後霊にゃ食えないな。残念だったな」

「何度も言っておるだろうが。わしは守護霊で、お前の先祖なのだぞ。もう少し畏敬の念をだな」

「うちの家系図とか見たことないしなぁ」


 食事を済ませて駅を歩く間も、真道は背後霊との会話を続けるのが常だった。

「それに、わしには虎島三之助こじまさんのすけという立派な名がある」

「俺と苗字違うじゃねぇか」

「男系だけで続いたわけでもないからのう」

 虎島という武士は、名前なんぞどうでも良い、と続けた。


「わしはのう、磨き上げた技を受け継ぐ才のある子孫を待っていたのだ。真道、お前にはその才能がある。数百年ずっと一族を見守り続けて初めてなのだ」

 だから、どうしても奥義を伝えておきたい。虎島はそう語る。

「人を殺すためではない。今の戦場で役に立つとはわしも考えてはおらなんだ。ただ、わしが一生をかけた結果を、無にするのは忍びないのだ……」


 その一念で何百年も成仏せずに現世に留まっていたのかと思うと、真道は薄ら寒いものを感じた。純粋とも言えるのかも知れないが。

「アホの一念岩をも通すってやつか」

「せめてコケにしてくれんか。折角道場で鍛えておるのに、勿体ない」

 まったく、と腕を組んで嘆息する虎島に、真道もため息を吐いた。


 同じような会話を、もう何年も何百回もしている。

「道場に通うのは、悪霊の声に惑わされないくらいに強くなりたかったからだ」

「悪霊とは、酷いことを言う」

「自分のことって自覚はあるのか」

「真道に何度も言われておるからのう」


 通勤時間の駅の中は、色々な人が行き交っている。

 その中で、独り言を言っているのは真道一人だけではあったが、イヤホンマイクで話している人や、カメラを自分に向けたまま話しながら歩いている人は珍しくない。

 広いホールに差し掛かって、真道はふと足を止めた。

 壁一面に広がる長い長い広告。そこには、流行りの異世界ファンタジーのアニメ化を告知する文言が、ヒーローやヒロインの姿と共に踊っている。


「ほう、異世界物の新作か。またWEBでチェックせねばな」

「随分と現代に染まったもんだな」

 虎島は現代までの世の中を見て来ているのもあるが、真道と意思疎通ができるようになったせいで、急速に現代の知識を吸収していた。

 真道に頼んでPCで動画視聴サービスを見るのも最近の趣味の一つだ。


「そうだな。例えば」

 広告の作品は、中世ヨーロッパ風の異世界に生まれ変わった主人公が、異常な量の魔力と現代知識で大活躍するという内容だった。原作の小説を、真道も読んだことがある。

 真道はその広告を見て、呟いた。

「例えば、俺がこんな風に危険な世界に飛ばされて、命がけの戦いが必要になったら、奥義を教えてもらいたくなるかもな」


 ――そうか。それは丁度良い――


「は?」

 虎島の物ではない、女性のような声音が、真道の耳に届いた。

「……は?」

 気づけば、駅に居たはずの多くの人々が、一人たりとも姿が見えない。

「お前は普通にいるのな」

「まあ、守護霊だからのう。一心同体じゃ」


 隣にいるむさい武士はそのままだった。

「幻聴か?」

 そう呟いた瞬間、真道の身体が浮かび上がった。

「お、おお?」

「真道!」


 虎島が慌てて手を伸ばして真道の右手を掴んだ。

「あれっ、幽霊のくせに俺を掴めるのか」

「今大事なのはそこではなかろうに!」

 不思議そうな顔をしている真道に、虎島は必死の形相でしがみついた。

「おおおおおおお!?」


 引き留めようとした虎島の意思とは裏腹に、浮かび上がった真道の身体は、まるで吸引力が自慢の掃除機を向けられたかのように、あっさりと広告の中へと吸い込まれていた。

 後に残されたのは、真道の鞄一つだった。

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