第15話

 最初に感じたのは、額と腕に触れる固い物体との感触だった。

 頭が重い。

 俺は椅子か何かに座ったまま、頭から突っ伏しながら、何かに体重をかけて寝ていた。


 反射的に、俺は顔を上げた。


「ここは…教室?」


 どうやら、俺は教室にある机に突っ伏したまま、眠りに落ちていたようだった。

 俺は座ったまま、その周囲を見る。

 教室はがらんとしていた。俺以外の席はない。俺は中央ど真ん中にいる。俺の前にも後ろにも、席はない。


 無人の教室。


 ただ、それ以上に異様だったのは、窓の外だった。

 真っ赤な空が見えた。


 夕焼けだろうか?


 いや、それにしては不自然すぎた。まるで血に染まったような原色じみた色彩だった。

 教室の窓から見える光景は、現実離れしていた。


 俺は立ち上がる。


 よくよく見ると、見覚えのある空き教室な気がしてきた。

 そうだ。ここは確か、雨の日に屋上の代わりに使っていた場所。


 しかし、今の状況は明らかに異常だった。


 いや、俺はそもそも神社にいたはずだった。

 記憶を思い出して、自らを見た。俺は学生服を着ていた。この学校の制服。

 

 じゃあ、夢を見ていたのか?


 しかし、それでは、窓から見える異様な赤い空は?

 今も夢を見ているのだろうか?


 しかし、一つだけ分かったことがあった。


「ここからなら…。」


 教室を出て、一階を目指す。そして、そこから学校の外へと行くことができる。

 俺の進む、足音だけが、無人の廊下に響いていく。


 無人だ。


 なにより、まったく音がない。

 学校は、ふつう放課後であっても、こんな無音になることはない。何かの音がある。練習の掛け声、吹奏楽部の練習している音。

 無音。


 やはり、ここは異様だった。


 階段を下りながら、先ほどまでの出来事を必死に思い出そうとする。神社での記憶。ナズナとの対峙。そして、境内で倒れたのだ。

 それから、どうなったんだろう。

 どうして俺はここにいるのだろう?


 さっぱり分からない。

 しかし、俺はこの学校から出るべきだ。

 自宅へ帰るべきだ。いや、警察に連絡を取るべきかもしれない。


 慌ててポケットを探ってみる。やはりというか、スマホが無かった。そもそも、制服のポケットには何も入っていない。


 そんなことをしていると、やがて、昇降口へとたどり着いた。

 しかし、ドアは開かない。何度引いても押しても、びくともしない。そのドアにある広いガラスからは遠くの校門が見えた。その校門より先の住宅地がぼやけて見える。

 それはあるはずだったけども、空が真っ赤なことも合わさって、まるで火星にあるかのような違和感を覚える。


 窓ガラス。

 これを割れば、もしかしたら、外へ出ることができるかもしれない。

 俺は周囲を見回す。


 靴箱、AED、傘立て…。


 傘立てには傘がない。

 靴箱には、靴はない。

 

 その時、ふと消火器が目に入った。これか。


 俺はそれを持った。ズシリとした重さを感じた。俺は消火器を全力で窓ガラスへ投げつけてみた。しかし、まるで跳ね返されたかのように、消火器が転がりかえってきた。

 玄関ドアにある、窓ガラスには傷一つつかない。


「まさか…。」


 思わず、呟いた。

 もしかして、俺が非力すぎるのか?


 もう一度投げる。しかし、その後、何度かガラスを破壊しようとしたが、それらはまったく同じ結果だった。


「ダメか。」


 俺は、昇降口から外に出ることをあきらめた。

 いや、そもそも。窓ガラスがビクともしなかった。まるで、見えない壁で防護されているかのようだった。


 俺は別のルートを探してみることにした。

 そう例えば、教室のガラス…。いや、おそらく試すまでもなく同じ結果だろう。


 いや、少なくとも。

 俺は廊下に戻る。

 そして、適当な教室の引き戸を開けようとする。


 まったくドアが動かない。まるで壁と一体化したように動かない。

 俺は周囲を見た。どの教室のドアも開いていなかった。

 そのまま、俺は廊下をさまよい、行ける場所を探した。


 しかし、校舎自体がまるで生き物のように、俺の行先のそのすべてを塞いでいた。


「どうすればいいんだ。」


 思わずつぶやく。

 あまりにも不自然な状況。まるで、この学校自体が俺を閉じ込めるための檻のようだった。


「あああああああああああああ!!!」


 試しに、大声で叫んでみる。

 しかし、無音の廊下にただ俺の声だけが響き、すぐに消えていった。外からは何の反応もない。そして、窓の外に見える町並みは、まるで良くできた模型のように。真っ赤な空の下にただ、そこにあるだけだった。


「なんだ、これ…。」


 廊下を歩きながら、記憶を整理しようとする。先ほどまでの出来事は、確かにあったはずだ。神社での恐ろしい体験。そして、ナズナとの対峙。境内で起きた異常な出来事。それらは確かな事実として残っている。

 でも、なぜここにいるのか。そして、なぜこんな異常な状況に置かれているのか。それが分からない。


 そうだ。

 まだ、行ける場所が一つあった。


「屋上だ。」


 そこなら、この状況が少しでも把握できるかもしれない。いや、そうじゃない。俺は本能的にそこへ行くべきだと感じていた。


 階段を上り始める。

 最上階。

 そこに行くための足音だけが廊下に響いていた。


 そして、階段の最上部に到着する。

 ここからは屋上へと続くドアがある。


 いつもなら簡単に開けることができた、あのドアノブ。


 しかし、今の状況で、あのドアは開くのだろうか。

 そんな不安を抱えながら、俺は屋上へのドアに手をかけた。


 いつもと同じように、ドアノブを少し上にあげながら回した。


 カチリ。


 意外なことに、ドアは簡単に開いた。いや、むしろ、このドアだけが開くべくして開いたような感覚。

 まるで、俺をここに導くために、わざと開くようになっていたかのような感覚すら覚えた。


 屋上に出る。

 目の前に広がる異様な光景に、言葉を失う。


 真っ赤な空の下、遠くに見える町並みは、まるでジオラマのように不自然だった。細部まで作り込まれた模型のような景色。

 体育館の赤茶けた屋根も、隣の校舎も、そして校庭からは部活動の声も聞こえない。まるで、この屋上だけが切り取られて、別の空間に浮かんでいるかのようだった。


「なんだよ、これ…。」


 思わず呟いた言葉が、不気味に空間に吸い込まれていく気がした。


 ふと気がつくと、給水室の壁。そこに寄り掛かれば、校庭や廊下からの視線はまったく届かない位置。いつも昼食を食べていた、あの場所が目に入る。


 その瞬間、記憶の中の違和感が一気に膨張していく。

 なぜ、俺はあんな場所で一人で昼食を?なぜ、誰とも関わらずに?


 そもそも、俺の記憶は本当に正しいのだろうか。

 その心の中で漠然と感じていた違和感が、少しずつ形を持ち始める。


 やはり、俺には以前の記憶がないのかもしれない。俺が俺として思ってきた記憶はすべてが疑わしい。


 ここまで考えて、俺は思考を止める。

 そして、考え直す。


 このスペース。本来なら誰にも見つからない場所。そこで一人きりで過ごしていた時間があった。

 そう、彼女と出会った、あの日まで。


 いつもの昼食。そこで食べていたはずの菓子パンの味も、白いビニール袋の感触も、今となっては遠く何か別の記憶のようだった。

 しかし、この記憶が俺のものではないような気がしてならない。

 もしあるとすれば、俺の記憶は、ナズナとここで出会ってからの記憶だけ。

 

 同じ思考が繰り返される。思考が纏まらない。


 もしかすると、そもそも、初めから…。


「違和感か…。」


 そして、なにか重要なことを理解しかけた時、意識が薄れていく感覚に襲われた。

 いや、それはむしろ、形を失っていく感覚。自分の存在そのものが、曖昧になっていくように感じた。


 思考が停止する。


 これはいけない。戻れなくなる。

 気がついてはいけないこと。しかし、それに俺は今、気がついてしまった。

 まるで、その真理こそが、本来のあるべきことであるような。


「私は…。」


 俺が口に出したのは、あの女子生徒の声。

 聞き慣れたはずの自分の声は、もはやそこにはなかった。


 目の前の景色が、私の全てを優しく包み込むかのように、やけに馴染んでいく。

 その瞬間、今までのすべてが、まるで走馬灯のように駆け抜けていく。


 思考が遠のく。まるで深い深い眠りに落ちていくような、心地よさ。

 

 その時になってようやく私は全てを理解した、そう、初めから逃げる意味なんてなかったのだ。

 …だって。


 完全に意識が落ちる前。私は一人で確認する。

 ああ、やはりそうなのだ、と思った。


 その事実を私は一人で抱きかかえた。

 すると、世界の全てが真っ暗闇へと落ちていった。



 光が単調な刺激として、私の意識に浮かんでくる。

 水に満ちたような、くぐもった音。

 そして、全身から伝わってくる、浮遊感。


 薄暗い光と浮遊感。


 混沌とした闇の中で、私は目覚めた。

 気がつくと、私の意識は空間全体へと広がっている。


 自分が何者なのかという問いも、どこから来たのかという思考も、すべてが意味を失っている。

 今の私にあるのはただ、この温かな空間との一体感だけ。

 その区別すら曖昧なまま。


 ここはどこだろう?


 周囲は、重力も空気も存在していないかのように感じた。

 まるで生命の源となる液体に浸されているかのような感覚。

 

 私は誰だろう?


 分からない。目で見るでもなく、耳で聞くでもない。

 すべての境界が曖昧で、世界との区切りすら定かではない。私という存在そのものが、この空間と一体となっている。

 そんな中で、私は空間に浮かんでいるのだった。


 それはまるで、芋虫が蛹となり、その中で急激な変態を遂げつつある途中のような。


 遠くからは、かすかな振動が伝わってきた。それは周囲の空間の全てを通じて、全身へと広がっていく。

 脈動。

 規則正しく、全員へと血液を送り込むような、そんな心地よい律動。


 しばし、私は世界を感じる。私を感じる。

 低い音、単純な光の刺激。そして、柔らかく広がっていく感覚。


 永久に時間が過ぎていくかのよう。


 その時。突然、世界が大きく揺れ始めた。

 それは波のような、ゆっくりとした振動。この私がいる空間そのものが呼吸を始めたかのようだった。


 その律動は次第に強さを増していき、私の意識を揺さぶり始めた。

 しかし不思議なことに、その揺れに恐れは感じなかった。


 蛹の中で蝶へと羽化していく過程のように、着実に、そして後戻りのできない変化が進んでいっている。


 温かな空間の中で、すべてが一体となっている。

 そして、その中から何かが形作られていく。新しい何かが分離を始めた。

 中心と外側が生まれて、引き裂かれていく感覚だ。

 しかし、それは苦しみではなく、むしろ自然な流れのような感覚だ。


 私の意識の中で少しずつ、確かな形が生まれていった。


 それに呼応するように、さらに空間が収縮を始めた。

 分離した一方が俺となり、流れが始まった。俺の意識には、強い光。白い光を感じた。

 その光は次第に強さを増していく。私の意識は、その光に導かれるように染め上げられていく。


 最後の瞬間、すべてが真っ白になった。

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