第13話
俺は、月の明かりに満ちた庭園の中を全力で走っていた。
この場所から逃げ出すことだけを考えて、参道を目指した。遠くにあるはずの赤い鳥居が、外界への唯一の出口のように思えた。
青灰色の砂利が、ジャリジャリとした足音を周囲に響かせる。
「先輩が、ここから出られるわけないじゃないですか。」
背後から、ナズナの声が届いた気がした。しかし、振り返っても、そこには誰もいない。
後ろから人の姿は見えない。彼女は俺を追いかけてきていない。
だから、大丈夫、大丈夫。
焦る気持ちを抑えながら、俺は自分にそう言い聞かせて、さらに走る。
庭園にある石灯籠が、まるで逃げ道を阻むように立ち並んでいる。それらの間を縫うように、鳥居を目指していった。
そうだ。そのまま、本殿の横を駆け抜けて…。
拝殿やら、社務所と連結している渡り廊下を迂回すれば、ここから出れるのだ。
順調だ。
だから、このままきっと。
俺は助かるのだ。
拝殿まで戻ってきた。あとはここを迂回して進めば、赤い鳥居は見えてくる。
赤い鳥居。
そこから参道。そして、学校へと戻る。
よし。
目の前には鳥居が見えてきた。
全力疾走。
ラストスパートとばかりに、俺は走った。
これまでの人生でこれほど真剣に走ったのは初めてかもしれない。
鳥居に向かって真っすぐに走る。
走る。走る。走る。走る。走る。走る…。
「えっ?」
俺は思わず、そう呟いた。
鳥居に到着しない。
確かに走り疲れていた。でも、俺は前に進んでいる。
どれだけ走っても…。走っても。目の前にある鳥居にたどり着かない。
いや、違う。距離が縮まらないのだ。
何かがおかしい。
「なんだ……これ……。外に出られないのか!?」
一度、立ち止まって、荒い息を吐き出す。心臓の動悸が激しく、耳に鼓動が響いた。
身体が休憩を欲している。
俺はそこで仕方なく立ち止まる。
油断なく、周囲を見る。
そして、後ろを振り返る。
拝殿を迂回して、鳥居に向かって直進しているはずの俺。
まったく俺は進んでいなかった。
そこで振り返ってみる。すると、先ほどまで自分がいたはずの方向にある拝殿と社務所、そして、反対側に位置している神饌所。それらの距離が一向に遠くなっていない。
まるで、ルームランナーの上で、永久に同じ場所で足踏みをしているような。
そんな、バカなことがあるだろうか?
そこで俺は、ネットで見たことががあるアキレスと亀という寓話を思い出した。
その話はこうだ。
アキレスという足の速い英雄がいた。そして、やたらと遅い亀がいた。アキレスはその亀を追いかけた。でも、アキレスは永遠に亀に追いつけないという話。
一見、それは矛盾に満ちた話だった。
だって、アキレスの方が速いんだから、いずれ追いつくはずだ。でも、アキレスが亀のいた地点に到達する頃には、亀はわずかでも前に進んでいる。そして、またその距離を埋めようとしても、その時には亀は更に前に進んでいる。
つまり、どれだけアキレスが走っても、亀との距離は縮まるけれど、決してゼロにはならない――。
まるで今の俺のように。目の前の鳥居との距離が、決して縮まらないように。
背後にある拝殿からの距離が遠ざからないように。
そう、今起きていることは、まさにアキレスと亀の寓話が現実になったかのようだった。
「先輩は、ここにいるべきなんです。永遠に。」
耳元で囁かれたナズナの声に、鳥肌が立った。その声は、まるで境内の空気そのものが言葉を発しているかのように、四方八方から聞こえた気がする。
もちろん、周囲にナズナ、どころか人っ子一人いない。
俺は恐怖に駆られて、パニックになりつつあった。
外に出たい。
この境内から出なければならない。
今度は参道ではなく、境内の外周を目指して走り出す。俺は、深い森が続く方角へと向かう。
進む。進む。進む。進む。進む。進む。進む…。
しかし、そこもまた同じだった。どれだけ進んでも、林の中へは一歩も踏み込めない。
まるで、目の前の景色が永遠に後退していくかのような錯覚。
その後、俺が境内のどこを走っても、外の世界との接点が見つからなかった。この神社の敷地だけが、現実から切り離された異空間のようだった。
疲労と絶望感で足が止まる。両手を膝について、荒い呼吸を繰り返す。
視界の端に神社の建物群が入る。目の前には本殿と渡り廊下、そして庭園を超えた奥にはナズナの家が見えた。
ああ、走っているうちに、俺は、あの庭園が見える場所と戻ってきてしまっていた。
しかし、この敷地内にある建物に逃げ込むなど考えられない。どの場所にも、あの異常な存在が待ち構えているに違いなかった。
渡り廊下で繋がれた本殿を見ながら、深いため息が漏れる。逃げられない。
ただ一つ確かなことは、この境内から出ることは不可能だという現実。その事実が俺を押し潰すかのようだった。
俺は境内の中央で膝をつきそうになった。脚が震える。それは単なる身体的な疲労ではない。確かに、延々と走り続けたことで筋肉は悲鳴を上げていた。しかし、それ以上に心が悲鳴を上げている。この場所から出られないという事実。
そして何より、あの異常な存在がいつでもその気配を振りまいているという精神的なプレッシャーだった。
そんな時、改めて本殿が目に入った。
そこは、その神がいるとされる建物。
ああ、そうだ。
もはや、外へは出られない。そう悟った時、不思議な諦めが心を支配した。
困ったときの神頼み、ではないが、なぜか俺はそこに入ろう、と思った。
まるで、他の建物や景色が霞んでいくような感覚が俺を支配した。
本殿へと向かうためには、庭園を横切る必要がある。
おそらく、その空間全体には、あの気配…。つまり、彼女が関しているかのような気配に満ちている。
あの重圧感すら感じる、そんな不快な感覚。
ただ、一つだけいることは、それらはすべて彼女が原因である、というのは確定しつつある事実だった。これまでの不可解な出来事の全て。それらは彼女の存在によって、きっと説明がつくのだろう。どうやって俺を監視し、どうやってあの気配を作り出しているのか。そんな疑問は、もはやどうでもよくなっていた。
俺にできることは、この目の前の一歩を、懸命に踏み出すことだけだった。
今は、目の前での最善を尽くすほかにない。
その庭園へと一歩を踏み出す。
石灯籠の間を通り、石畳の小道を進んでいく。周囲に植えられた木々の間から、月明かりが差し込んでいた。
この庭園は本殿とナズナの家の間に広がっていて、本殿へと続く渡り廊下が、まるで空中に浮かぶように架けられている。その渡り廊下は本殿の裏手から伸びており、そこまで行けば本殿に入れる。
小川のせせらぎを横目に、庭園の小道を進む。以前感じた視線の気配は、今はもう恐ろしくなかった。その正体が彼女であることが分かってしまえば、ある意味では怖くはない。
やがて渡り廊下の下にたどり着く。木造の回廊が月明かりに照らされていた。
回廊には柵などない。日本古来の外と中を区別しない様式、といえばいいのだろうか?
もう、逃げる場所などない。神頼みでもいい。俺はここで何かを見つけ出すしかないのだ。
渡り廊下に足を踏み入れる。板張りの廊下が、足音を静かに響かせた。両側にある、庭園の全景が見渡せる。
本殿の裏手の入り口まで、もう少しだ。
俺は恐怖なのか疲労のなのか、もはや原因が分からない震えると足を引きずるように本殿へと向かった。渡り廊下の板が軋む音だけが周囲へと聞こえる。
その一歩一歩が、なにか重要な事実へと近づいていく予感がした。
本殿の前で立ち止まる。
そこにあるのは、大きな木製の引き戸。
それに手をかける、カギなどはかかっておらず、その扉は、重たい音を立てて開いた。荘厳な空気が、一気に俺へと流れ込む。
格子状の窓から差し込む月の光が、本殿の床に四角い模様を描いていた。その本殿の窓から射し込む月明りは、想像以上に明るく、その空間を照らしていた。
天井まで届く巨大な神棚は、漆塗りの黒い柱に支えられ、その存在感は圧倒的だった。欅でできた棚板は幾重にも重なり、まるで階段のように上へと伸びている。
そこには古めかしい装飾品の数々が並んでいた。朱塗りの器や、金箔を施された神具。それらの調度品は、どれも丁寧な手入れがされており、年月を重ねながらも威厳を保っていた。
しかし、その中央に異質な存在を見つけた。伝統的な神具の合間に、まるで絵巻物が博物館で展示されるかのように、広げられているのだ。
その絵巻に描かれているのは、図書室で見た『郷土の歴史』と寸分違わぬ絵だった。白木の軸を持つその絵巻は、まるでここに居場所を得たかのように、神棚の上に広げられていた。
セーラー服姿の少女。神社の建物。そして、あの時に見た、後から見たときに現れた祠。全てが一致している。だが、この絵巻にはさらなる変化があった。
制服姿の少女が中央で、まるで神々しい輝きを放つように描かれている。その姿は神棚の高さに相応しい威厳を帯びていた。そしてその周りには、制服を着た男子生徒。その姿が描き加えられていた。
「絵が…変化している?」
一度ばかりか、二度も…。
もはや言い逃れはできない。もはや、その理由を考えることを半ば放棄していた。
分からない。何もかも。
「先輩、気づきましたか?その絵の男子生徒は、先輩なんですよ。」
その声に、血の気が失せる感覚を覚えた。俺はゆっくりと振り返る。そこには本殿の中で、静かに微笑むナズナの姿があった。
彼女の姿は、いつもの学校で見るものと変わらない。紺のセーラー服。畳敷きの床に白足袋の足を揃えて立つ彼女の姿は、この厳かな空間に不思議と馴染んでいた。
しかし、その手には、あの厨房から持ってきた大きな包丁があり、それが異様に目立った。
神社らしい格子窓から差し込む月明りに照らされた、彼女には、どこか人間離れした雰囲気があった。
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