第8話
ナズナの後を追って、本殿の奥へ進んでいく。本殿からなにか渡り廊下が続いていた。
その回廊のような廊下の両側に広がる庭園の風情は、写真で見る高級旅館のそれを彷彿とさせた。庭園として作成された池とそれに流れ込む小川。そのせせらぎが耳に心地よく、砂紋の模様は職人の技が息づいているかのようだ。
ナズナの先導のもと、日本庭園の中を進む。
その先にあったのは、黒瓦の屋根と白壁が織りなす和風建築だった。周囲の景観と完璧な調和を保ちながら、どこか幻想的だった。
ここが神社の境内であることを忘れてしまえば、ここが何か旅館かのようにも見えた。
入口の玄関は、本殿へと続く木製の渡り廊下のすぐ隣に設置されており、広い引き戸だった。
その引き戸には、採光性が高い摺りガラス、枠は木製であり、どこか懐かしさを漂わせている。
しかし、建物の雰囲気も合わさって、決して古いという感じはなく、使用されている木材の高級さゆえなのか、清潔さすら感じられる。
さらに、その玄関の外観は、その隣に存在している本殿への渡り廊下と外壁がシームレスな高級木材により一体となっており、上品かつ風情を感じる。そんな自然な感じを受けた。
…ああ、なんて綺麗な家なんだ、と俺は思った。
「ここが私の家なんです。」
ナズナの声には誇らしさがあった。
たしかに、これは誇らしくもなるだろう。
そんな玄関の引き戸を開けると、もちろん中も広かった。和式の廊下は奥へと続いており、まるで新品かのような綺麗な状態の砂壁。見事な襖。そして、天井と床は艶のある木材で仕上げられ、足音さえ吸い込むような感じだ。
「案内しますね。」
ナズナに導かれるまま、廊下を進む。両側には次々と和室が現れ、それぞれが広々とした空間を持っている。襖の向こうには大広間らしき場所も見える。壁には古めかしい絵巻が掛けられ、その内容は神社の歴史を物語っているようだった。
そして、先導するナズナは足を止めた。襖を開けた。
十畳を優に超える空間だった。
そこは、純和風という和室。畳の上には、立派な座卓が置かれ、床の間には格式高い掛け軸が下がっている。砂壁は塗りたてなのかと思われるくらいに綺麗だ。そして、何より天井まで伸びる柱は、年月を感じさせる木目で、この建物の歴史を物語っているようだった。
「まるで、旅館みたいだな…。」
思わず口に出てしまう。その畳の上を歩くと、足の裏に伝わる感触も高級な和室のように感じてしまった。
「そうですか?私にはここは普通ですけどね。」
「ま、住んでいればな。」
「ちなみにここは食事をする、大広間です。」
ナズナの説明。
それを受けてもう一度みる。大人数でも宴会でもするのかという感じだ。
「ナズナ、両親はいるのか?」
思い切って聞いてみる。これまで両親の話を一度も聞いたことがなかった。
「ああ、しばらく家を空けていますよ。」
ナズナは軽やかに答えた。その表情には曇りひとつない。これほどの建物を、彼女一人で…。
それにしても彼女を置いてご両親はどこにいったのか。
そもそも、男の俺を入れていいのか?
などなど、いろいろと追及しようとした瞬間、ナズナは身を翻して廊下を進み始めた。
◇
廊下を先導するナズナについていく、俺。
「次はですね…。」
何か含んだ感じで話しかけてきた。
「なんだ?」
「ふふっ、先輩。次は、なんと!私の部屋をお見せしますね。」
「えっ?ああ?」
間抜けた声した出せなかった。しかし、この場の空気を壊すことはできず、俺は黙ってその後を追うことにした。
廊下を進む足音だけが、周辺へと広がっていく。この長い廊下の分岐点を曲がるたび、さらなる廊下が現れ、その先にもまた部屋が続く。
「あ、ここです。」
ナズナは突然立ち止まり、一枚の襖に手をかけた。
襖が開かれると、これまでの厳かな雰囲気が一変した。畳の上に敷かれた薄いカーペット、勉強机がある。その机の上に並ぶ教科書とノート。壁には可愛らしいカレンダーが貼られている。
「私の部屋なんです。」
ナズナは誇らしげに言った。なるほど、ここだけは現代の女子高生の部屋そのものだった。
机の上には、数学の問題集が開かれたまま置かれている。赤ペンで書き込まれた解答が丁寧な文字で記されていた。ペン立ての中には色とりどりの筆記用具が収められ、その隣にはノートらしきものも見える。
本棚には教科書が科目ごとに整理され、その横には小説や参考書が並んでいる。全てが几帳面に配置され、乱れた様子は微塵もない。
「どうぞ、座ってください。」
ナズナがクッションを差し出してきた。部屋の片隅には小さなテーブルがあり、その上にはティッシュボックスと小さな鏡、そして女の子らしい小物が置かれている。
「お茶、淹れてきますね。」
ナズナは立ち上がると、軽やかに部屋を出て行く。取り残された俺は、再び部屋の中を見回した。
いいのかな、俺。
ここにいて…。
曲がりなりにも、ここは後輩の女子高生の部屋なのだ。
しかも、これまでの話だと両親がいない。
玄関で靴を脱いで、この家に上がってきた時から、なんとなく感じていた違和感。それが、今、はっきりとした形を取り始めていた。
両親がいない家に、男子である俺が上がり込んでいる。そのことへの後ろめたさ。確かにナズナは普段から人懐っこいというか、人との距離が近い子だ。それは分かっている。でも、ここまでしていいものだろうか。
部屋の中を見渡すと、女子高生の私物が並ぶ空間が見える。その中に、俺だけが場違いな存在として取り残されている。
そう思うと、より一層、居心地の悪さを感じた。
壁に貼られた可愛らしいカレンダー、小さなテーブルの上にある小物や棚の中にあるもの…。それらの全てが俺が触れてはいけないもののように思えてきた。
「お待たせしました。」
ナズナが戻ってきた。手には急須とお茶の入った湯飲みを持っている。
「あの、ナズナ。」
「なんですか?」
「やっぱり、俺がここにいるのは…。」
言葉を濁す俺に、ナズナは首を傾げた。
「大丈夫ですよ。気にしないでください。」
そう言って微笑むナズナ。
「先輩、せっかく来てくれたんですから。」
ナズナはそう言うと、俺の前にお茶を置いた。湯気が立ち上る緑茶の香りが、緊張した空気を少しだけ和らげる。
「ここは神社だし、それに、私は神職の家系なんですよ。」
「だからって…。」
「先輩は特別なんです。」
さらりと言い切るナズナの態度には、不思議な説得力があった。俺は観念したように湯飲みに手を伸ばす。
「ありがとう。」
素直な言葉が口から零れた。それを聞いたナズナは、満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、すべての疑問を吹き飛ばすような、そんな力を持っていた。
「そういえば、お昼ご飯の時間ですね。」
ナズナが立ち上がり、部屋の隅にある小さな時計を見た。
「私が作りますから、少し待っていてくださいね。」
「いや、手伝うよ。」
「大丈夫です。先輩はここでゆっくりしていてください。」
そう言って、ナズナはまた部屋を出ていった。一人になった俺は、改めて部屋の様子を観察する。確かにここは女子高生の部屋だ。
ナズナの奴のことだから、凝った料理に違いない。
ということは、時間が掛かるかな?
俺はスマホを手に動画を見ることにした。
◇
「先輩!できましたよ。」
ナズナの声に我に返る。ふと、スマホを見ると、もう一時間近く経っていた。部屋で待機していた俺の気まずさを察してか、彼女は大広間まで案内してくれた。その空間の広さは、改めて圧倒的だった。
座卓の上には、和食が整然と並んでいる。艶やかな焼き魚に、出汁が染み渡った煮物、そして香ばしい揚げ物まで。まるで料亭のような品数の多さだ。
「これ、全部ナズナが作ったのか?」
「はい。先輩のために腕を振るいました。」
どこか誇らしげな様子で言うナズナ。その横顔は、いつもの学校での姿とは少し違って見えた。
「いただきます。」
箸を付けると、驚くような味わいが口の中に広がった。焼き魚は皮が香ばしく焼かれ、中の身は驚くほど瑞々しい。まるで今まさに水揚げされたかのような新鮮さだ。大根の煮物は出汁が芯まで染み込み、口に入れた瞬間にとろけるように崩れていく。
「この味は…すごいな。」
何か言葉にできない深い味わいがあった。それは単なる美味しさを超えて、どこか懐かしさすら感じる不思議な味だった。普段なら一膳で十分なはずなのに、気づけば何度もおかわりをしている。
まるで心を奪われたかのように、次々と箸が進んでいく。それは心地よい満足感というより、どこか底なしの飢えを感じさせるものだった。食べれば食べるほど、もっと食べたくなる。そんな不思議な感覚に包まれていった。
「おいしいですか?」
ナズナの問いかけに、ただ無言で頷く。
彼女は、俺が箸を運ぶ度に、楽しそうに俺の反応を見ている。
ナズナは黙って、茶器からお茶を足してくれた。それらは、学校での彼女とは違って見えた。なにか、非日常的な空間というものが作用しているのだろうか?
「先輩、これもどうぞ。」
「ああ、ありがとう。」
「ふふっ、まだまだありますよ。」
ナズナは嬉しそうに微笑む。
「ナズナも食べろよ。」
「じゃあ、私も。」
俺がそういうと、ようやくナズナも箸を手に取った。その手つきは上品で、まるで茶道でも習っているかのようだ。
「一緒に食べる方が楽しいですよね。」
そう言って、ナズナは小さく笑う。彼女の仕草は学校とは違って、どこか成熟した雰囲気を感じさせた。
「いつの間に、こんな料理を覚えたんだ?」
「えへへ、神社にいると自然と身についちゃって。」
ナズナの答えは曖昧だったが、その手際の良さは確かなものだった。彼女は少しずつ箸を進めながら、時折俺の茶碗が空になると、さっと新しいおかずを差し出してくる。
「先輩、特にどれがお気に入りですか?」
「そうだな…全部うまいけど、この焼き魚がすごく美味い。」
「良かった。実は、これが一番気合を入れて作ったんです。」
会話を交わしながらの食事は、不思議と居心地が良かった。
いつの間にか、ここがいつも食事をする屋上のように思えるほどに。
俺の緊張はいつの間にか、ほぐれていた。
◇
俺とナズナは、豪勢な昼飯を食べ終えていた。
そのまま、食事の後片付けとなったのだが、さすがにナズナ一人に押し付けるわけにもいかず。
ナズナ様の手伝いをすることになった。正直、慣れていないが、皿洗い位を俺は手伝った。
かくして、今俺とナズナがいるのは、この広いナズナの家にある厨房なのだった。
それはまさに厨房といえる、業務用にも見える広い広いキッチンだった。
「先輩、午後は庭を見て回りませんか?」
一通り、片づけの終わったナズナの提案だった。
「ああ。いいぞ。」
俺は頷く。
おそらく、この旅館のようなナズナの住まいに来る途中に見たやつか、と思いながら。
「分かりました。じゃあ、向かいましょう。」
最後に吹き終わった皿を食器棚に置きながら、ナズナはこちらを向いてそう言った。
そのまま、俺はナズナに誘導されながら、厨房を出た。
ナズナは俺の前を軽やかに進んでいく。白いワンピースが、廊下を進んでいくのだ。
俺も急いでその後を追う。
木張りの床が微かな音を立てる。
「先輩、外に出ますよ?」
玄関に着いたナズナは、すでに靴に履き替えており、そう楽しそうにそう告げる。
俺の返事を待つことなく、彼女は、その玄関の広い引き戸を開ける。すると、そこから素晴らしい景色が見えた。
この建物から本殿へと向かう渡り廊下が、手前から奥の本殿へと向かっており、そしてその周囲には、手の込んだ日本庭園が見える。
まるで絵画のような景色が広がっている。
石灯籠が点在し、小さな流れが庭園を縫うように進んでいく。磨き上げられた石が水際に並び、砂紋が美しい模様を描いていた。
「すごいな、これ。」
思わず呟いてしまう。誰もがイメージしかしたことないような、高級旅館のような庭園。
それにしてもナズナの奴、こんなところに住んでいたとは…。
「気に入っていただけましたか?」
ナズナが嬉しそうに尋ねてくる。
俺は頷きながら、靴に履き替えていく。
「さて、先輩。あの先まで、散歩しましょう。」
ナズナは小川に沿って伸びる小道を指差した。境内とは思えない庭園には、石が一歩ごとに敷き詰められ、その周囲には木々が生えている。それはまるで計算されたかのような自然な風情を醸し出していた。
「ここって、誰が手入れしてるんだ?」
思わず尋ねてしまう。これほどの庭園を維持するには、相当な手間がかかるはずだ。
「それはですね…。」
ナズナはくすっと笑う。そして問いに応えないまま、玄関から出た。
俺もそんな感じの彼女についていった。
玄関先の石畳を進んでいく。
そして、俺とナズナは庭園の小道へと進んでいく。両脇に設えられた石灯籠が、まるで道案内をしているかのようだった。
庭園はどこまでも広く、まるでこの世界とは違う空間に迷い込んだような錯覚を覚える。
ナズナはまるで散歩に慣れた様子で、足早に前を歩いていく。時折、立ち止まっては、石灯籠の配置や、水の流れ、石組みの具合を指差して説明をしてくれる。その一つ一つの言葉には、この庭園に対する深い愛着が感じられた。
「先輩、この石組みが好きなんです。」
俺の前で立ち止まったナズナは、まるで昔からの友人に話しかけるように、ある石組みの前に立っていた。俺もその場所で足を止める。確かに、まるで自然にそうなったかのように見事な石の配置。芸術作品のようにも見えた。
ふと気がつくと、庭園のあちこちから、鋭い視線を感じる。目に見えない何者かに観察されているような不快な感覚が首筋を這う。石灯籠の向こう、木々の陰、庭石の隙間から、誰かが俺を凝視している。
「あの…。」
思わず声が出る。どの方向を向いても、視線の正体は掴めない。確かさっきまでそこにあったはずの石灯籠も、まったく違う場所に見えてくる。
「どうかしましたか?」
ナズナが振り返る。白いワンピース姿の彼女は、普段の制服姿とは違って見える。彼女と庭園にいるからだろうか?まるで別人のような存在感すら感じられた。
「なんていうか…誰かいないか?」
恐る恐る尋ねてみる。首筋の違和感は消えない。むしろ増していく一方だ。
「いいえ、今、ここには私と先輩だけしかいませんよ。」
ナズナは微笑を浮かべて答えた。
しかし、石灯籠の陰から、また視線を感じる。振り向いても誰もいない。でも、確実に誰かがいる。何者かが、俺を見つめている。
庭園のどこかで、誰かが笑っているような気配すら感じられた。
「気のせいかな?」
俺は独り言のようにつぶやく。
そんな俺を不思議そうにナズナはじっと見ていた。
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