第3話

 次の日――。

 昼休みを告げるチャイムが鳴り響く。教室が騒がしくなる中、俺は静かに席を立った。

 屋上への階段を上っていく足取りは、いつもより少しだけ重かった。それは昨日のナズナとの約束を意識しているからかもしれない。いや、約束というより、一方的な宣言だったか。

 俺が手にしているのは、菓子パンとお茶といういつものセットだ。白いビニール袋の中で、チョコでコーティングされたパンが揺れている。

 しかし、今日はこれを食べることになるのだろうか?


 昨日の様子からすると、ナズナがいて――。


 そんなことを考えながら、俺はドアノブに手をかけ、いつものように少し上に押し上げる。カチリという音と共に開いたドアの向こうには、予想通りと言うべきか、ナズナの姿があった。


「先輩!お待ちしてました!」


 屋上のいつものスペース、給水室の壁際には、すでに二つの弁当箱、そして彼女が昨日、使っていた水筒が置かれていた。藍色の風呂敷で包まれた弁当箱は、昨日と同じように整然と並べられている。

 風に揺れる髪をかきあげながら、彼女は、こちらを見て嬉しそうに微笑んだ。その仕草には、昨日と変わらない自然さがあった。


「約束通り、お弁当作ってきましたよ。」


 給水室の陰。俺たちがいつも座る場所は、校舎からの視線が完全に遮られる位置にある。ナズナは、すでにそこに腰を下ろし、俺の分の弁当箱を指さしていた。ここまでされると、さすがの俺も拒否する気にはなれない。

 俺は彼女の隣に座った。昨日と同じように、彼女との距離が近すぎる。肩が触れそうなほどの距離。

 それは友人以上の、まるで恋人同士のような近さだった。


「なんで、ここまでするんだ?」


 思わず口にした疑問に、ナズナは首を傾げた。風に吹かれる黒髪が、彼女の首元で揺れている。


「だって、先輩の昼食があまりにも寂しすぎるから、です。」


 彼女は当然のように答える。その言葉には、打算も見栄もない。ただ純粋に、そう思っているだけなのだろう。


「ああ、そうかい。」


 なんとか、俺はそれだけ口にした。そして、俺は用意された弁当の蓋を開ける。

 その瞬間、俺は動作が止まってしまった。

 蓋を開けた瞬間、艶やかな色彩が目に飛び込んできたからだ。

 卵焼きの黄金色、緑鮮やかな野菜、そして、ソースのかかったハンバーグ。おかずの彩りは昨日以上に鮮やかで、とても美しく詰められている。

 彼女が料理好きだとしても、これだけの手間をかけるのは並大抵のことではない。


 俺のために、朝早くからこんな手の込んだ弁当を作ってくれたのか。そう思うと、なんとも言えない気持ちになる。


 …いいのか?これを食べても?


「どうぞ、召し上がれ。」


 ナズナが俺に微笑みかけている。制服の袖が、また俺の腕に触れた。


「ああ、いいのか?これを。」


 言葉が出てこない。昨日のように、まるで当たり前のように受け取って良いものなのだろうか。


「いいんですよ、先輩。」


 ナズナの声は明るく、どこまでも自然だった。まるで、こうして二人で昼食を共にすることが、ずっと前からの日常であるかのように。


「ありがとう。」


 俺は、そういうほかになかった。これだけの弁当を作ってもらって、他に何を言えばいいのか分からない。

 しかし、間違いないのは、ナズナにここまで作らせておいて、今更、食べないなんて選択肢はあり得ないって、ことだ。

 

 俺は箸を手に取った。コンクリートの冷たさが背中に伝わる。


 いつもなら一人で過ごすはずの屋上で、誰かと一緒に昼食を取る――。


 俺の隣でこちらを見つめているナズナの仕草は、まったく自然で違和感がない。視線を感じて、ちらりと横目で見ると、彼女は期待に満ちた瞳で俺の反応を待っているようだった。


「いただきます。」


 俺はナズナの視線に後押しされて、一口食べる。口に運んだのは、玉子焼き。ふんわりとした食感の中に、優しい甘みと出汁の風味が広がる。


「どうですか?」

「ああ、うまい。」


 玉子焼きを頬張った俺の素直な感想に、ナズナは嬉しそうに微笑んだ。


 素直な感想だ。昨日とはまた違う、優しい味わい。玉子焼きの次は、小さく切られたハンバーグに箸を伸ばす。それも絶妙な味付けで、思わず顔がほころんでしまう。


「これ、全部お前が作ったのか?」


 思わず尋ねてしまう。こんな手の込んだ弁当を、毎朝作るなんて。しかも、ただ美味しいだけではない。どの料理も丁寧に作られていて、見た目の彩りまで考えられている。


「はい。料理は得意なので。」


 ナズナは誇らしげに答える。その表情から読み取れるのは、純粋な喜びの感情だ。


「先輩、どうですか?味付けは濃くないですか?」


 心配そうに尋ねる声に、俺は首を横に振った。


「ちょうどいい。」

「そうですか?」

「うん。うまいな、これ。」


 俺は弁当にガッツきながら、正直な感想を言う。まずいはずない。


「よかったです!実は、味付けで悩んだんですよ。先輩の好みがわからなかったので。」


 嬉しそうにナズナは笑った。

 そして、彼女は自分の弁当も開けた。中身は俺のと同じような料理が、同じように美しく並べられている。二人分の弁当を作るのに、どれだけ時間がかかったのだろう。そう思うと、なんとも言えない気持ちになる。


 二人で黙々と食事を続けていると、時折、ナズナが話しかけてきて。

 俺は相手をしながら、彼女の作った弁当をいただいていく。


 給水室の壁に寄りかかった姿勢のまま、ふと、俺は弁当を食べる手を緩めた。

 味は確かに素晴らしい。だが、それ以上に気になるのは、この状況そのものだった。


 風が吹き抜けて、彼女の着ている制服のスカートの裾が、そっと揺れる。

 そして、彼女の髪が、風になびいていく様子が目に入った。


 あまりにも近い。昨日から不思議に思っていたが、この距離感は普通じゃない。


 昨日知り合ったばかりの関係で、こんなにも親密な空気に包まれているのが、正直、戸惑いを隠せない。

 そもそも、昨日まで、ここには俺しかいなかったはずなのに。


 しかし、ナズナはそんな俺の気持ちなど露知らず、まるで当然のように振る舞っている。それどころか、俺が食べる様子を嬉しそうに眺めている。


「先輩、これも食べてみてください。」


 ナズナが指さしたのは、小さな唐揚げだった。衣はカラッと揚がり、中からジューシーな香りが漂う。


「ああ。」


 差し出された唐揚げを口に運ぶ。外はサクサクで、中は柔らかい。にんにくと生姜の風味が絶妙だった。


「これも美味しいな。」

「本当ですか?よかった!実は昨日、レシピを見直して、下味の時間を少し長めにしてみたんです。」


 ナズナは嬉しそうに話す。その声には純粋な喜びが溢れている。なのに、俺にはどこか引っかかるものがあった。昨日の時点で、今日の弁当のことまで考えていたということか。しかも、わざわざレシピまで見直して。


「お前、そこまでする必要ないんだぞ?」


 思わず口にした言葉に、ナズナは首を傾げた。


「でも、先輩が美味しいって言ってくれるなら、それだけで十分です。」


 風が吹き抜けていく。遠くから、部活動の声が聞こえる。いつもなら、それらの音は俺にとって心地よいBGMのはずだった。けれど今は、この状況の不自然さを際立たせているようにも感じた。


 俺は黙々と弁当を食べ続けた。味は確かに申し分ない。でも、この状況が俺には重すぎる。昨日、今日と、手の込んだ弁当を作ってもらう。朝早くからこんな手の込んだものを作ってきてくれて。


 この今の関係を、一体なんていうのだろうか?


 そう考えている最中、ふと視線を感じた。

 見上げると、ナズナがじっと俺を見つめていた。その瞳には、俺を観察しているかのようだった。


「なんだよ?」

「ふふ、先輩って考え事をするとき、眉間に皺が寄るんですね。」


 ナズナの声には、どこか楽しそうな響きがあった。まるで、俺の反応を楽しんでいるかのように。


「そ、そうか?」


 思わず手で眉間を押さえる。そんな仕草まで見られていたのか。なんだか落ち着かない。

 風が吹き抜け、給水室の陰で二人きり。この状況がますます重たく感じられる。


「えへへ、何を考えているですか?先輩。」

「いや、別に…。」


 俺は曖昧な返事を返す。弁当箱の中身は、もう半分以上が空になっている。綺麗に並べられていたおかずたちも、今では食べられて形が崩れていた。


 なぜ、ここまでしてくれるのか。俺のような存在に、なぜここまで接近してくるのか。

 単純な好意とか、そういうものじゃない。

 彼女という存在が結構な謎ではある。


 俺は彼女を見た。屈託のない表情でこちらを見ている、それは嘘偽りのない、心の底からの笑顔。

 俺もその笑顔を見て、疑問が消えていくのを感じた。


 …まあ、いいか。


 俺は結論を下した。


「そういえば、どうして屋上に人が来ないんだろうな?」


 ふと、俺は自分でも変な疑問を口にした。


「うーん。まあ、屋上って立ち入り禁止じゃないですか?」


 ナズナは無難な回答をした。確かにその通りだ。


「いや、その…。学校には俺のようなボッチってのは、思ったよりも大量にいるはずなんだよ。それに屋上に来たがるのは、ボッチだけじゃない。」

「はい?」


 ナズナは、俺の話の要点が見えていないように、首を傾げている。

 彼女のそれは、まるで小動物のような動作で可愛くみえた。


 俺はかまわず、言葉を続けた。


「だからだ、暇を持て余したボッチや不良が、屋上のドアをガチャガチャやるのは当然だろう?」

「私はドアを調べましたが…。」

「だから、俺やナズナみたいな人がもっといてもおかしくないと思ったんだ。」


 そう、俺がこの屋上に来るようになってからであったのは、この後輩だけ。

 俺が来るまでに先客もいなかった。

 もっと、ここにたどり着く生徒が多くてもおかしくないと思っているのだが…。現実は違う。


 みんな、カギのかかった屋上へのドアが開いたりしないか、調べたりしないのか?

 それとも、もしかして、俺の手癖が悪いのか?


 いや、そうだとすれば、目の前のナズナも結構な悪人である。


「なるほど、先輩の言いたいことが分かりました。屋上のドアのカギをぶっ壊したのは先輩ということですね!」

「ハアぁ?」


 俺は変な声を出してしまった。


「だって、先輩は…。」

「い、いや。断じてそれは違うぞ。ここのカギは初めから壊れていたんだ。断じて、壊して侵入なんてしていない。」


 俺は焦りながら、そう言った。


「あはは、それは分かっていますよ、先輩。」


 ナズナはクスクスと笑っている。


「ああ、そうだ。俺はカギが壊れていたから、ここに入っているだけだ。」

「変なところで律儀なんですね。」

「いいや、壊したと壊れていたでは、全く違う!」

「そうですか?入っている時点で一緒だと思いますけどね。」


 なかなか、ナズナのやつは分かってくれないようだ。まあ、いいや。


「まあ、問題はそこではなくってな。その、つまりだ。屋上への憧れだな。つまり、不良とかボッチとか寄ってたかって、屋上に来そうじゃあないか?だから、今の状況が変だという話だ。」

「そうですね、私もカギが壊れていることに気がつきましたし。ただですね、先輩。」


 すっと、ナズナの表情が変わった。俺もそんな気配を察する。


「なんだ?」

「先輩が知りたいのは、どうして、屋上のドアを確認したりする生徒がここまで少ないか、ですよね?多ければ多いほど、カギが壊れていることに気がついて…まあ、私や先輩みたいに屋上に来る生徒がもっといてもおかしくはない、と。」

「ああ。そうだろう?」

「この屋上って、学校の七不思議の一つなんですよ。」

「学校の七不思議?」

「はい。夕暮れ時に、屋上に女子生徒が立っているのを見たっていう噂があるんです。この学校で自殺した生徒の霊らしくて…誘われることもあるみたいです。」


 ナズナは楽しそうに語る。その表情には恐怖の色はまったくない。


「だから、夕暮れ時には屋上の方を見ちゃいけないって言われてるんですよ。」

「へぇ…。」


 俺は適当に相づちを打った。こういう怪談話なんて、どこの学校にでもあるだろう。


「だから、その噂を信じていると、この屋上に来るなんてトンデモないことなんじゃないですか?」

「なるほど。」


 俺はナズナの推理をまとめる。つまり、学校の七不思議が心理的なバリアとなって、ボッチや不良生徒を屋上から遠ざけている。

 おかけで、屋上ドアのカギが壊れているという事実の発覚を抑えている、ということだ。


 うーん、どうかな?

 俺はそう思った。


「先輩は、七不思議を信じますか?」

「いや、まあ…。」


 俺が言葉を濁すと、ナズナは少し含み笑いをしていた。


「私は…信じてますよ。それって、素敵じゃないですか?」


 その時、風が強く吹き抜け、ナズナの髪が大きく揺れた。彼女の黒髪が風になびく様子は、どこか神秘的にさえ見えた。


「ナズナ?」

「あ、ごめんなさい。変なこと言っちゃいました!」


 遠くでチャイムが鳴った。昼休みが終わりに近づいているのを告げる予鈴だ。


「あ、もうこんな時間。」


 ナズナは弁当箱の蓋を閉じ始めた。その仕草には無駄がない。まるで、毎日こうしているかのような慣れた動きだった。


「明日も、お弁当作ってきますからね。」


 片付けながら、彼女は当然のように言った。その言葉に、俺は複雑な感情を覚えた。

 確かにただ飯はありがたい。しかし、タダほど高いものはない、ともいう。


 何かお礼をしたほうがいいのか?

 でも、それは何をすればいいのだろうか?

 分からん。


 気がつけば、ナズナは弁当をしまい終わっていて。

 そのまま、彼女は先に屋上から出て行った。


 いつものように給水室の壁に背中を預けたまま、俺は、一人残されていた。

 さっきの俺は、最後に彼女に、なんていったっけ?


 きっと、俺が上の空だったのだろう。


 そこでは、いつもの風が、いつもの声が聞こえてきていた。


 壁に寄り掛かりながら、俺はちょっとだけ苦笑していた。

 ナズナと出会ってから、俺の日常は変わってしまった。

 一人でいることが当たり前だった屋上で、誰かと過ごすようになった。しかも、手作りの弁当まで作ってもらって。


 でもまあ、こういうのも、いいのかもしれない。

 俺は、ゆっくりと壁から立ち上がった。



 俺はその日も屋上で、彼女と隣り合わせで座っていた。

 もはや、すっかり俺は、ナズナによって餌付けをされている生き物だ。


「ナズナ、いつも、ありがとうな。」


 俺は屋上で彼女の弁当を食べていた。今日は鮭の塩焼きと卵焼き、ほうれん草の胡麻和えに、肉じゃがまで入っている。昨日とはまた違う趣向の献立だ。


「いいえ、どういたしまして。」


 ナズナの返事は、相変わらず自然な感じがする。俺もナズナの横に座り、弁当を食べることに慣れてきたのかもしれない。

 最初は感じていた違和感は、もはや薄く薄く引き伸ばされてほとんどない。


 ああ、それにしても。


 彼女の行動の意図は、まだ完全には理解できない。なぜ、俺にここまで親切にしてくれるのか。でも、その謎めいた理由を追求することをやめていた。


 まあ、いいのだ、そんなことは。


 今は、このおいしい弁当を食べるべきだ。


 彼女の純粋な喜びに満ちた表情。

 そこに面倒という感情は読み取れない。

 もし、俺だったら、朝から弁当を作るなんて、嫌だけれど。


「あっ、そうだ、先輩。」


 ハッと、気が付いた様子のナズナ。彼女はスカートのポケットから、スマホを取り出している。


「連絡先、交換しましょう!」


 唐突な提案に、俺は戸惑いを覚えた。

 確かに、出会ってから、毎日、彼女と顔を合わせているけれど、それはあくまで屋上という限られた空間での出来事だ。

 連絡先を交換するということは、その関係が学校の外にまで広がることを意味する。

 スマホを手に取りながら、ふと気がついた。そういえば、俺のスマホには誰の連絡先も登録されていない。誰かとメッセージのやり取りをすることもない。ただの暇つぶしの道具でしかなかった。

 

 だからこそ、この瞬間が妙に重く感じられる。

 しかし、弁当を作ってもらっておいて、連絡先の交換が嫌だとは言いずらい。


「どうかしました?」


 俺の躊躇を見透かしたように、ナズナが首を傾げる。風に揺れる前髪の陰から、不思議そうな瞳が俺を見つめていた。その視線には、いつもの明るさがある。


「いや、別に。」


 俺は観念したように、ポケットからスマホを取り出した。

 画面のロックを解除する。いつもなら、ニュースやネットの記事を眺めるだけのこの画面に、今日は違う意味が生まれようとしていた。


「じゃあ、私から送りますね。」


 ナズナは手慣れた様子で、自身の情報を画面で常時した。俺はスマホをかざす。

 設定された電子音が鳴った。


 彼女の名前が俺の画面に表示された。


『ナズナ』


 そんな名前が見えた。

 どこか特別な意味を持っているように感じられた。


「これで、いつでも連絡が取れますね!」


 彼女の声には純粋な喜びが見えた。その表情は、まるで大切な約束を交わしたかのように嬉しそうだ。

 これまで誰とも連絡を取ることのなかった俺のスマホに、初めて他人の存在が入り込んできた。

 大げさな言い方かもしれないが、それは、俺の世界が変わっていく感じがした。


「先輩!女子生徒との連絡先交換は初めてですか?」


 ナズナの言葉に、俺は曖昧に頷いた。

 彼女は笑っている。

 馬鹿にしたような感じではない。どちらかといえば、恥ずかしがっているような…。


 とにかく、俺と彼女との距離が、また一つ縮まったような気がする。それは嬉しいような、少し怖いような、不思議な感覚だった。

 けれど、もう後戻りはできない。


 そのまま、しばしの間、俺は画面に表示された彼女の名前をぼんやりと見つめていた。

 これからは、この名前が俺のスマホに時々現れることになるのだろう。その事実が、目に浮かぶようだった。


 ナズナの作る弁当が俺の前にはあって、連絡はいつでもできる。

 もはや、俺の日常は、完全に彼女によって上塗りされたように感じた。

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