イシダさん
久しぶりに風呂から上がると、居間で楓が明日のこころの病院への通院で使う診察券を手に持ち、何やら怪訝な顔でそれを見入っていた。
「イシガサ……?」
楓は妙な言葉を呟き、口を尖らせている。トランクス姿で髪をタオルで拭きながら、俊照は母の物思いに耽る顔を見て、笑った。
「ははっ。お母さん変な顔してる」
母の背中へ抱きつき、無防備に甘える。口を尖らせて悩む楓は滑稽なほどにある一件と向き合っている。
「イシガサ……?ねぇとしくんの病院でお婆さんが前にね、イシガサって言ったの」
俊照はいきなり楓に話を持ちかけられて、首をかしげる。
「イシガサァ?何なの?」
「分からなくて。ただイシガサって呟いてたの。そう言ったかは分からないけど」
「分からないんかーい!お母さんの妄想でしょ」
その瞬間、つけっぱなしのテレビから不気味な音楽が鳴った。よくある真夏の心霊番組だ。
「いやー。タイミング悪すぎよ」
楓は目を逸らし、イシガサなんてどうでもいいと明日のために風呂に入ることにした。
順番はいつも俊照が先で、それは勿論母として新しい綺麗な湯に俊照を入れたいという想いからだ。
「見なかったら、消しといてね。あと、スマホはあと三十分だけだからね」
楓は自分のスマートフォンを俊照に貸していた。YouTubeで好きな動画を見て、アイスを頬張るのが夜の楽しみだった。
風呂場に行った楓を見送ると、俊照は心霊番組を「くだらなーい」と言ってリモコンで消し、スマホでYouTubeチャンネル「トンガリダンス踊ってみた」の投稿を見た。トンガリ!と大きな声を出して、青い全身タイツに身を包んだ三人の若者が両腕を真上に直立させてぷるぷると揺れている。
「はは、お母さんのくちびるみたい。尖らせて石田さんのこと、考えてたのかな」
ん……?
今、石田さんって言った?
俊照はふと自分の口から出た言葉にゾッとした。
「ウァァーーー!」
声を荒げ、同時にテーブルのリモコンを床に落とした。自分の勘が鋭くなってる。イシガサは石田さん。心の中で誰かが案内したみたいに点と線は繋がってしまったのだ。
「でも忘れるっ!セーフ」
俊照は戦隊ヒーローのポーズをして怖い妄想を頭の内からポイッと外へ捨てた。
内心、とても恐怖だった。
神様が、自分の脳内へと直に送り届けているメッセージ。そんなふうな予見がした。自分より高い次元の民が次々に天しか知らない情報を頭へ送り込んでくる。あまりに恐ろしい。鋭くなりすぎた直感は既に俊照にとって、じれったく何か身体を制約され鎖で繋がれたようにうっとうしい。
「湖、喋ったんだ。ねえポチ、どう思う」
ポチと名付けた小さなぬいぐるみの犬が無言で黒い鼻からブヒブヒ鼻水を垂らしているユーモア溢れる想像をした。
「このブルドッグ喋らないのに、なんで湖は喋るの?水だから?水は生命の源。大きなエネルギーが湧く泉」
そして、絶対に言ってはならない、そう決めていた言葉を吐き出してしまった。
「身近な人がじきに死をとげる……?」
俊照はS極とN極が引っつくように物凄い勢いで布団に入った。これ以上、気にできない。頭もどうにかなりそうだった。
「ぼくに、どうしろと言うの?神様は、ぼくに何を求めてるの?」
風呂場で楓は鼻歌を歌っていた。今流行りのポップな曲だ。いわゆる懐メロも歌うが、やはり今の曲についていく安心感も捨てがたい。明るい曲は、心を豊かにする。嫌な未来のことも一時的に離脱し、よそに置ける。
ただ、イシガサという発言を残したお婆さんが明日病院に来ないことを祈った。いくら汚い格好の若者が二人そろって入ってきても悪口を言うような人とは付き合いたくない。ましてや俊照と同じ病院に行かせたくない。
しかしあのババァも何か病んでいるのだろう。現代は何が精神を脅かしてもおかしくない。病気になる原因なんて幾らでもある。
湯船には黄色のアヒルのおもちゃが浮いていた。俊照がいつも遊んでいるモノだ。あの子、いつこれを卒業するんだろう。そう思いつつも、黄色の色彩の明るさと口を尖らせたアヒルの可愛いひょうきんな顔は、さきほど口を尖らせていた自分とも重なって吹き出してしまった。そうしていると、楓の脳内に妙な風景が浮かんだ。
湖の中で、一人の男がジッとこちらを見ている。スーツ姿の男性。まだ若い、三十代くらいか。会ったこともない人だとは思うが、楓の中では出会ったこともあるような奇異な記憶が混合していた。男は手招きをすると不敵な笑みを浮かべる。風呂の湯が湖の表面と重なり、楓は不信に満ちた。
今の男はだれ?……何なの。
元夫の耕助とは少し違うタイプの風貌で、耕助は真面目で優しい顔立ちだが、その男はいかにもキザな感じで、悪ぶった笑顔が逆に色気を出していた。何故、今こんな男の姿が連想されるのだろう?何か、この男と似た人物とどこかで出会うなら注意しろという警告夢でも見たような風景だ。奇怪だ。
楓は身震いすると、すぐ湯船から出てシャワーを浴びた。少し熱めの湯が心のぬめりのような男のイメージを洗い流してくれると願って。
二〇二五年七月二十日 午前十時
相馬こころクリニック 待合室
今日は、イシガサといった発言をしたあのお婆さんは来ていないようだった。少し病院の雰囲気に慣れてきた俊照は、あとで先生に何を話すか迷っていた。
「お母さん、ぼく……トイレ」
尿意がして、この前覚えた廊下を歩く。すぐにトイレが目の前に映った。今日はこのドアを開けても、何も無いと思い、ドアを開けた。トイレの中には一人、おじいさんが小便をしていた。頬には深いキズがあるおじいさんで、胸がザワついた。隣に行きたくなくて、個室を選ぶ。個室の中は安全。だがおじいさんは「グアァァ」と雄叫びに近いあくびともとれる声を発した。
「全然出ねえや」
その声は世に絶望したと言わんばかりの他人を責めているような気を感じられるものだ。
ググッと刃を突きつけられた感覚が頭の中で蠢く。人の放った想念にも俊照は人一倍強く反応する。
「こんな病院二度と来ない」
そうおじいさんは呟いて唾を吐く音を小便器の下に響かせ、手も洗わずトイレを後にした。俊照は今のおじいさんともう一人の男を比べた。無意識に。図書館で出会った例の優しいおじさん。トオルおじさん。ただ、トオルおじさんがどういう人間なのか、まだ知らなかった。カフェでサンドイッチとジュースをくれた優しいおじさん。父と重なるから、トイレのこの個室でも泣いてしまいそうだった。俊照はそのまま重い足どりでドアを開け、洗面の鏡の前に立った。隣に父の耕助が笑いながら優しく立っている。「俊照、元気か?またサッカーしような。次いつ会える?」
ーー決めとけよ。
そんな温かい口ぶりで自分の肩に静かに手をかける父が浮かぶ。
「じゃあ早く来いよ」
普段は温厚な俊照の声とは違った怒りに溢れた声が低く響いた。
父なんて、嫌いだ。裏切って違う家庭を作ったのに!それで笑うな。笑っておれの前に現れるな。
いつもは「ぼく」なのに、その時ばかりは「おれ」という勇ましい言葉を使った。湖のメッセージに対抗できるためにも、もっと強くならなきゃいけないと焦っていた。鏡を割ってしまおうかと手がグーになって前へ出たが、寸でのところで止めた。
トイレから廊下へ出ると、向かいのレントゲン室からパーマのお婆さんがナースと話しているのが見てとれた。窓ごしだが、レントゲン室は丸見えの状態で、一つ窓にその室内が映っている。間違いない、あの時の石田さんだ。
「イシダさん」
そう、俊照が名を呟くと、石田は激しく首を振ったかと思うと、ナースに素手で掴みかかった。石田は強い奇声をあげている。
俊照はその光景に叫び、耳を両手で塞いで「アーアーアー」と何度も声を出した。もう見たくない。こりごり。世界に映る奇妙な大人たちの悪夢。覚めていても、映る悪夢。
楓と受付のナースは同時に駆け寄ると、俊照は泣きじゃくっており、レントゲン室からは石田の怒号が響いてきた。襲われていたナースは、室内の隅っこのほうで身を屈めて震えている。
その日、診察はできないで俊照と楓は沈黙したまま、帰宅した。
夜、家で俊照は楓の膝枕を受けて静かにくちびるを噛んでいた。
「お父さん……。もう会えないの?」
楓に言いたくはない心の叫びを伝える。
「ごめん。あの人はもう」
「うそばっかり。どの大人もそうだ。ぼくをうらぎって、消えていくんだ」
楓は俊照の悲しい呟き声を聞いて、ふいに涙を流す。ポロポロと俊照の頬にこぼれて、それはもうどちらが泣いているのか、涙は境界線を失くし、彷徨って床に落ちた。
「お母さん、ぼく公園に行きたい。お父さんとよくサッカーしてた。また」
あの湖の記憶は、悪いものばかりじゃない。光。闇……。その両方を持っている。痛々しい何かが手をのばしても、俊照は引かなかった。あの場所にしか無い何かがある。死者を弔う魔法だってある。それが何なのかは今はよく、分からないけれど。確かにあの場所に。楓の心配そうな表情を見て、次にキッチンの窓を見るとお婆さんの、石田さんの顔が映っている。窓の向こうはアパートの一階通路。それは幻のように一瞬で消え、胸の中を引っ掻いていった。激しい残像。幼児返りをした俊照は窓から目をそむけ、無言で指をしゃぶると、頭をなでるようにと楓にせがんだ。ピタリと自分の髪を楓の腹に押し付ける。
「マリーヌっていうカフェ、入ったことある?図書館の」 俊照は遠回しに、あの人との話をしようとした。陽射しの照る温かい店。知らないけれど、優しい目をしたおじさん。「ううん。そういえば入ったことないわね」髪をなでながら、虚ろな声で楓は返す。だが、俊照は希望を見出している。
「行ってみようよ。ぼく行きたい、今度」
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