第34話 沈黙の本体
広間に残った黒い残滓が渦を巻き、やがて人の形をとり始めた。
だが、それは先ほどの沈黙の核とは比べものにならない。
全身が黒い紙片でできており、無数の背表紙を貼り合わせたような身体。
顔には口がなく、赤い瞳だけがぎらぎらと浮かんでいる。
リィナが息を呑む。
「……これが“沈黙の本体”。沈黙の書架そのものを支配する存在……」
沈黙の本体は一歩踏み出した。
その足音は――聞こえない。
しかし衝撃だけが伝わり、広間の床が波打つように震える。
次の瞬間、本棚が一斉に崩れた。
積み上げられた本が宙に浮かび、次々と白紙になって消えていく。
広間に声なき悲鳴が響き、空気が重く沈む。
「……記録が、音もなく……消されてる……!」
蓮は奥歯を噛みしめ、カードを掲げた。
だが光は生まれない。
声が封じられているこの区画では、ただ掲げるだけでは何も起きなかった。
「……また書くしかない、か」
血に濡れた指でカードに文字を刻む。
『抗え』
兵士たちが淡く光り、沈黙の本体へ突撃する。
だが触れた瞬間、兵士の身体は崩れ、白紙の紙片となって散った。
「そんな……触れただけで……!」
リィナの顔が険しくなる。
「奴は“沈黙に変換する力”を持っている。あらゆる声や存在を、文字のない白紙にしてしまう……」
「おいおい、それチートじゃねぇか……!」
蓮は叫びながらも必死に次の文字を描いた。
『守れ』
兵士が盾を掲げ、リィナの前に立ちはだかる。
しかし盾も一瞬で白紙に変わり、砕け散った。
沈黙の本体の赤い瞳が二人を見据える。
音はないのに、その視線だけで「声を奪う」という意志が伝わってくる。
――沈め。
――お前たちの声も、名も、沈黙に還れ。
囁きすら聞こえない。
だが脳内に直接流れ込むその意志に、蓮の膝が震えた。
「……っ……!」
自分の名前を思い出そうとしても、喉が動かない。
声が出ない――存在が揺らぐ。
リィナが本を開き、ページを強く叩きつける。
光の鎖が放たれるが、沈黙の本体は一瞥しただけで鎖を白紙に変えた。
「効かない……!」
その瞬間、リィナの身体から力が抜け、膝をついた。
「リィナ!」蓮が駆け寄る。
「……大丈夫か!?」
「……奴は“声”だけじゃなく、“記録魔術”すら沈黙させている……」
彼女の青い瞳に、初めて焦りの色が浮かんでいた。
蓮は血の滲むカードを強く握りしめ、唇を噛んだ。
「……だったら、声じゃなくて“意志”で刻むしかねぇだろ」
震える手で新たな文字を描く。
『忘れるな』
光が爆ぜ、兵士の一人が現れた。
その胸には“忘れるな”の文字が刻まれている。
声はない。だが、その存在は確かに踏みとどまっていた。
沈黙の本体が腕を振るい、その兵士に触れた。
白紙に変わりかける――が、胸に刻まれた文字が光り、崩壊を拒んだ。
「……耐えた……!」蓮が目を見開いた。
リィナも青い瞳を大きく見開く。
「……声を奪われても、“刻まれた意志”は消えない……!」
「そういうことだ!」
蓮は必死に笑った。
「なら、書きまくってでも抗ってやる!」
彼は再び血でカードを染め、次々に文字を刻んだ。
『立て』
『抗え』
『守れ』
兵士たちが光を帯び、沈黙の本体を囲むように並ぶ。
声はない。だが胸の文字が光り、沈黙に呑まれない。
沈黙の本体の赤い瞳がぎらりと揺れる。
初めて、わずかに動揺を見せた。
リィナが立ち上がり、本を強く抱きしめた。
「蓮……今こそ“共に意志を刻む”時だ」
「上等だ……! ブラック残業の最終試験、やってやろうじゃねぇか!」
二人は同時に床に文字を描き始めた。
声がなくても、意志は確かに刻まれていた。
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