第32話 沈黙の回廊

 黒い扉を抜けた瞬間、藤堂蓮は違和感に襲われた。

 回廊を踏みしめるはずの足音が――聞こえない。


 衣擦れも、呼吸の荒さも、心臓の鼓動さえも耳に届かない。

 世界から音が削ぎ落とされたようだった。


「……ここが“沈黙の書架”……」

 リィナが口を開いた。だがその声も掠れていて、空気に溶けるように消えていく。


 蓮は慌てて耳を澄ませた。

「リィナ……今、何か言ったか?」


 彼女は頷いた。

 声が届かないのではない。声そのものが奪われているのだ。


 通路は果てしなく続き、左右には高い本棚が並んでいる。

 しかしその本には背表紙がなく、どれも表紙が閉じられたまま眠っていた。

 まるで音と共に、物語までもが封じられているようだった。


 蓮は息を吐き、索引カードを取り出す。

 だがカードもまた光を失い、白紙のように沈黙している。


「……マジかよ。兵士を呼べない……」

 声に出したつもりでも、自分の耳には届かない。

 空気が震えない。音がない世界は、自分の存在さえ曖昧にする。


 やがて、回廊の奥から黒い靄が滲み出した。

 霧は床を這い、やがて人の形を模した影へと変わっていく。

 赤い瞳が光り、だが口は動かない。


 音がない世界に、ただ視線だけが迫力を持って突き刺さった。


 蓮は思わず叫んだ。

「来るぞ!」


 だがリィナの耳は反応しない。

 声が届かない。


 影は一斉に飛びかかってきた。


「……ちっ!」

 蓮はカードを叩きつけたが、やはり光は生まれない。

 この区画では“声”が封じられている。

 索引も兵士も、発動の要が奪われていた。


 影の爪が迫る。

 とっさに蓮は身を捻り、床を転がった。

 心臓が跳ね上がる。だが音がないせいで自分の鼓動すら感じ取れない。


「……やべぇ……」

 恐怖が倍増する。音がない世界は、死がすぐそこにあると実感させる。


 リィナが前に出て、本を開いた。

 ページが揺れるが、その動きも無音。

 彼女の唇が動き、何かを唱えている。


 次の瞬間、影の一体が光に弾かれて吹き飛んだ。

 どうやら彼女の“記録魔術”は声ではなく、書に刻まれた記録を媒介にできるらしい。


 蓮は歯を食いしばった。

「……俺は声に頼りすぎてた……ここじゃ通じない……」


 影が次々に迫る。

 リィナも応戦しているが、数が多すぎる。


 蓮は必死に考えた。

 声が奪われるなら、別の形で意志を刻むしかない。


 彼はカードを取り出し、床に押し当てた。

 血で濡れた指先を使い、震える手で文字を描く。


『忘れるな』


 カードが淡く光った。

 次の瞬間、足元から小さな光の兵士が立ち上がった。

 声はない。ただ、蓮の書いた文字を胸に刻んだ兵士だった。


「……出た……!」


 リィナが一瞬目を見開き、無言で頷く。


 音がない世界で、兵士たちはただ光を纏って影に突撃した。

 剣と槍が交わるはずの音はなく、戦場は完全な沈黙の中にある。


 それでも蓮の胸には確かに響いていた。

 ――声がなくても、意志は残せる。


 彼は血を吐きながらも、カードに次の文字を刻んだ。


『抗え』


 兵士の光がさらに強くなり、影を押し返していく。


 沈黙の回廊にわずかな光が広がった。

 だが奥の闇からは、さらに濃い影が蠢いていた。


 リィナは青い瞳でそれを見据え、唇を動かした。

 ――「ここからが本番だ」


 声は聞こえない。

 それでも蓮には、彼女の言葉がはっきり届いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る