第19話 巨影の猛威

 黒い霧が爆発するように広がり、広間全体が闇に呑まれた。

 巨影の胸に並ぶ無数の口が一斉に開き、耳を裂くような囁きを吐き出す。


――忘れろ。

――名も記録も、すべて虚無に還れ。


 その圧は、これまでの比ではなかった。

 兵士たちが現れるより早く揺らぎ始め、声を持つ者でさえ次々に掻き消えていく。


「くっ……!」

 蓮の胸に鋭い痛みが走り、喉から血がこぼれた。

 兵士が消えるたび、その痛みが彼の肉体に跳ね返る。

 視界が霞み、膝が折れそうになる。


「蓮!」リィナが叫んだ。

 彼女も本を掲げ、光の鎖を放つ。

 だが巨影はそれを嘲笑うかのように飲み込み、鎖ごと砕き散らした。


「……効かない……!」


 冷徹なリィナの顔が初めて苦悶に歪む。


 巨影が一歩踏み出しただけで、棚に収められていた本が震え、次々と白紙へ変わっていく。

 ページが宙を舞い、声にならない悲鳴が響いた気がした。


「やめろ……!」

 蓮は震える手でカードを掲げる。


『抗え! 名を示せ!』


 兵士たちが現れ、再び咆哮を上げる。

 だが巨影は胸の口を大きく開き、その声を丸ごと飲み込んだ。


 瞬間、蓮の頭に激痛が走り、膝から崩れ落ちる。

「ぐっ……! これ……本当に……やばい……!」


 巨影の赤い瞳がぎらつき、蓮を真っ直ぐ射抜いた。


――お前の名を喰らい、存在を消す。


 囁きが頭の奥に突き刺さる。

 母の笑顔が消え、友人の声が霞む。

 ついには、ここに来てからリィナと交わした言葉さえ薄れていった。


「……やめろ……! 忘れさせるな……!」


 必死に声を上げるが、掻き消される。

 意識が白く塗り潰されていく。


「蓮!」

 リィナが駆け寄り、その腕を支えた。

 彼女の青い瞳が揺れ、必死に彼を引き戻そうとしている。


「聞け! お前は藤堂蓮! 私を救った男だ! その声を失うな!」


 その言葉が、崩れかけていた意識に小さな灯を戻した。


「……俺は……藤堂蓮……!」


 掠れた声で叫ぶと、カードが微かに光った。

 それでも巨影の囁きは止まらない。


――足りない。

――お前の意志は弱い。


「……弱くなんか……ない!」

 蓮は血を吐きながら笑った。

「俺は残業だって休日出勤だって耐えてきた! 忘却ごときに……負けてたまるか!」


 その軽口に、リィナが目を見開いた。

 次の瞬間、彼女も声を張る。


「私も叫ぶ! 私はリィナ! 記録を守る司書だ!」


 二人の声が重なり、兵士たちが再び立ち上がった。

 光を纏った軍勢が巨影へ突撃し、囁きと咆哮がぶつかり合う。


 広間は光と闇の衝突で揺れた。

 だが巨影は未だ揺るがない。

 赤い瞳がさらに輝きを増し、胸の口が新たな咆哮を準備していた。


 蓮は唇を噛み、震える手でカードを握りしめた。

「……まだ終わらせねぇ……! ここで倒れたら、全部消える……!」


 巨影の影圧がさらに高まり、決戦は熾烈さを増していく。

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