師匠にあたる人


「おお、元気だったか、マキア」


その男は暗がりからいきなり出てきたように見えた。

いや、マキアが一目散に男が現れた場所を目指していったから、最初からいたんだろう……ビクトルに見えていなかっただけで。


(この男が)


マキアの師匠にあたる人。

師匠ではないと言いながら親しげで、明らかにマキアの普段の様子と違う。


ビクトルは、彼とそこそこ親しいと思っていた。

そのまま、そこそこだ。おそらく、ビクトルが考えていたほど、親しくはなかった。

それが、とても――




調子が悪い。

体調が悪いのではなく、何かしらうまく行かない。


週に二度の治安隊の打ち込み試合。

先程参加したビクトルは、一試合目で同僚から腹にもろに食らった。

痛みがわりとつらく、本当なら大差をつけて負けた側は反省の運動と素振りがあるのだが、それすら治療後と治療師――治癒専門の魔法士を呼ばれた。

ずきずきと今まで体験したことがないような痛みで、一歩も動けなかった。


治療後、ひと通りの反省をこなし、あとは続く試合をぼうっと眺めている。

負けたのもあるが、痛みで身動きできないという体験にショックだった。退避もできないとなると、本当に足手まといだ。


(メニュー増やそう)


家でも素振りが必要かもしれない。

そうやって、盛り上がるカードを何の感慨もなく座って見ていると。

ごんっと頭を殴られた。


「ぉあっ?」


衝撃で身体が半分ほど斜めになったが、ぐっとこらえて手で突いて、首をぐんっともとに戻す。


「なん、」

「あ、ごめ、ほんとに当てるつもりは……」


数メートル向こうに、ラインハルテが引きつった笑みでこっちを見ている。


「……なにがだ」

「いや、その、頭の、」


くらっと、直後に平衡感覚がなくなり、そのまま意識が途切れた。

起きたのは、その1時間後だった。

ラインハルテは石を投げたらしい。けっこう尖ったもので、そういうところは外さない彼女だ、一番鋭いところがビクトルのこめかみに当たっていた。

出血と脳震盪、身体だけは頑丈なビクトルは数秒だけ耐えられた。

……踏んだり蹴ったりだ。


心配した隊長が、一度念入りに診てもらえ、と専門の治療師への紹介状と1日半の休日をビクトルに与えたが、なんとなくこの不調の原因を自覚しているビクトルにはいたたまれなかった。

しかし、治療には行って、結果を報告せねばならず。

案の定治療師には何もないと笑顔で言われ、すごすごと帰り道。


「あれ?ビクトルさん?」

「……あ、ああ」


突然声をかけられたと思ったら、見知ったおさげの少女が目の前に現れた。


「どうなさったんです?制服……?」


勤務は強制的に上がることになって、着替えが面倒でそのまま治療師に行ったのだ。制服は着ているとややこしいので、上着は脱いで片手に持っていた。


「ああ、すこしヘマをやって、治療師のとこに行ってきたんだ」

「えっ大丈夫ですか?なんかそういえば顔色が悪い気がしますし……店で休んでいかれます?」

「え?」


……今気づいた、古道具屋への道を歩いている。家に帰るには遠回りのはずだが。


「ああいや、大丈夫だし」

「いえ、休んでいってください、ね?」


心配そうな目で見上げられて、良心がチクチク痛む。


「……ああ、じゃあお邪魔する、か」

「はい」


ほっと息をつくペチカに、ぐっさりと心が切りつけられる気分。

大人しくついていき、数分もかからず店にたどり着いた。


「マキアさん、あの」

「ああ、いい、そんな大したことじゃないんだ」


おそらく治療師のことを言おうとしたのだろう、ペチカを遮って言わせなかった。

大人げないことをしているな、と思いながら、やっぱり来なきゃ良かったと後悔する。


ドアを開けた店内、カウンターにはマキアがいて、その隣に、おそらくあの夜の男が立っていた。

改めて見ると、ものすごくおかしな感じがする。

年齢は、ビクトルの一回り以上か。顔立ちはこの国のものと確かに違うけれど、服装はどこにでもあるシャツとズボンだった。

精悍で男らしく、体つきもどこの戦士かと思うほど鍛えられている。けれど――どこか、そこにいるという感じがしない。

そう、静かすぎる。

自分でもなんだかよくわからないが、そんな気がする。

だがまあ、マキアの不思議のもとがこの男だという話だ。おかしいのも含めておかしくはないのだろう。


「……ビクトル?」


マキアがすこし驚いたようにこちらを見た。

それにチクチクと心が痛みながら、


「いや、近くに来たもんだから。忙しいならいいんだ、またな」

「ビクトルさん!お茶淹れますんで、お茶!」


ぐい、と腕を引っ張られた。ペチカだ。

むっと怒った顔で、なぜか睨まれた。


「バーバラさんのクッキーもあります!食べていってください!」

「お、おい、」


グイグイと引っ張られ――かなりの強さで、振り払おうとするとケガをさせそうだ。

そのまま、カウンターの横に立たせられた。さっと内側から引き出されるスツールに、えいと脇をつかまれて座らされる。


「ぺ、ペチカちゃん、」

「いいですか、お茶をいれるんです!お待ち下さい!」


ペチカは怒ったまま、奥に行ってしまった。


「……なんだあれ」


マキアがぽかんと奥をしばらく見つめ、それからビクトルを振り返る。


「どうした?制服を持ってるだけ?剣もないな」

「いや、ちょっと急ぎの用事があって、それを終わらせてきた。退勤はしてるんだ」

「うん……?」


不思議そうな顔をしたが、深くは追及してこなかった。前からそんなに人のことを聞かないやつだったな、と今になって気付くが、ともかく今はほっとした。


「やあ、あらためまして、ということになるのか?青年」


深い声が、ぱっと鼓膜を打つ。

男、ナンリといったか、彼はにこやかにビクトルに声をかけてきた。


「あの夜マキアと一緒だったんだろう?そうか、君か」

「ああ、あのときは……挨拶もせず」

「うん、まあ、気遣いいただいたんだろう。今後は必要ない。自己紹介がまだだったな、俺はナンリという。よろしく」


朗らかに笑う男は、見かけによらず優しそうだった。


「ああ、ビクトルだ。俺は、この街の衛兵だ」

「衛兵、ふうん。ああ、その分だと俺のことは知っているんだな。マキアがしゃべったとはなあ」

「成り行きだ」


なんだか苦い顔をして、マキア。


「一言もなく消えたから、すこし……意外だったんだが」

「いや……邪魔しそうだったし、な」


本当は、もちろん違う。

声をかけられなかった。そんな自分が情けなくて、ほとんど逃げるように帰った。


「君は、けっこうこの店に来ているんだな」


ナンリは少し発音がおかしいが、難なく聞き取れる程度で、声の調子はずっと朗らかだ。

店に来ていることを、マキアが言ったのだろうか。ちらりと店主の方を見ると、彼は唖然とナンリの方を見ている。


「……なんで」

「彼の気がこの店に残っている。場も変わってきているし……今彼を前にしたらようやく分かった。俺もまだまだということだ」

「え?どういうことだ?」

「君が知らずにこの店を変えていっているということだ」

「ええっと?」

「つまり、今後ともマキアと仲良くしてくれということだ」

「……はあ」


さすが、マキアの師匠。

言葉が通じているはずなのに何を言っているのかわからない。


「……」


マキアは無言でカウンターを離れ、奥へと消えた。


「……」

「なんと、恥ずかしがるとはな、あのマキアが」

「え!?」


思わずボキッと首の骨の音が鳴るほどの勢いでナンリを振り返った。


「え、マキアが?」


ナンリは奥のほうを眺めて、顎に手を当てて思案げだ。


「うん、どうしていいか分からんのだろう。あれは人付き合いのイロハをまったく知らないからな」

「イロハ?」

「おっと、方法というか手段というか……ともかく下手くそということだ」

「……え?下手くそ!?」


思わず叫んだ。

あんなに人に親切にできて、人付き合いが下手くそとは。


「だ、だって、店だって普通に……」

「ああいうのは手本みたいなのがある。こう言えばこう思ってくれる、ああ言えば、ああ答えると、だいたい人は当たり障りがなければ同じ反応をするものだ」

「え、ええ……」


そんなことをいちいち考えながら人と話すのは疲れないだろうか。ビクトルには真似できそうにない。


「そういうところは、マキアはたしかに上手い。けれど、規定から外れたらもうだめだ。なんと言っていいのか分からず、結局黙る。あいつをおとなしいと思ったことはあるだろう?」

「……おとなしいって、つまり、何を言えば分からなくて困ってたってのか……?」

「おおむねは」

「……うそだろ」

「余計なことを言ったかな。仲を深め合うには手探りが醍醐味かとは思ったが……」

「……いや、助かったっす」


たぶん、単純な自分は勘違いしたままいつ気付くかわからない。

それに、ナンリのことも。


「……いろいろとすいません」

「ん?なにがだ?」


ナンリはとぼけているのか本当に分からないのか、面白そうにビクトルを見るだけだ。

すぐに、ペチカとマキアがトレーにいろいろ乗せて戻ってきた。


「……ビクトルさん、逃げませんでしたね!?」

「逃げるって……」


たしかに、逃げようとしたけれど。

マキアの表情はいつもと変わらないように見えるが……まあ、まだ出会って日も浅いのだ、いきなり全部を知れるわけじゃない。


ペチカが言い張った通り、お茶と一緒にクッキーが出てきた。一番人気の、アーモンドクッキーである。

この店で、久しぶりのお茶だ。

なんとなく、クッキーがいつもより甘い気がする。

少し空気が落ち着いたと思ったら、またナンリが爆弾のようなことを言った。


「……そういえば、ビクトル君、君にしては久々の来店……ということなんだろうか」


……もう少しでお茶を吹くところだった。


「え、……え?」


またマキアの方を見るが、彼もまたナンリを唖然と見ていた。


「いや、気の濃さとかそういうんだがね。まあ、俺の気のせいかもしれないが」

「えーやっぱり来てなかったんですね?どうしたんですか?」


ペチカが心配そうに見てくるのは、治療師のことがあるからだろう。

彼女に心配をこれ以上かけたくない。


「少し忙しかったんだ。これで終わったし、……明日特別休暇をもらったし。これからは普通だぜ」


嘘を言うため目が泳いだが、さいわい突っ込まれなかった。


「……そうなんですね、なんかマキアさんもビクトルさんの話してなかったし、そっか……」


……話を、していなかったのか。

どう取ればいいのかわからず、ビクトルは口を閉じてお茶を飲み直した。

だが、マキアはふと口元に手をやって、下を向く。ほんの、少しで、たぶんビクトル以外見ていない。


(笑って、る?)


よくわからないが、やっぱり面白いやつだな、となんとなく思った。




(そうか、……忙しかったのか)


それを聞いた時に自分の中で湧き上がった感情がよく分からず、飲み下すために下を向いた。

しばらくビクトルが来なかった理由。

嘘くさい、とは思ったが、もう通常に戻るというなら、それでいい。


うれしい?ほっとした?……なぜ?

しばらく倦怠感のようなものを感じていたが……それもなんだか薄らいだ気がする。ナンリが来て、修行を再開したからそのせいかと思っていたのだが。

何でもないような表情を作って、お茶を飲む。


ビクトルはやはりナンリが気になるらしく色々と彼と話をして、来た時よりいくぶん顔色を取り戻して帰っていった。

ペチカが少し様子がおかしいビクトルを店に引っ張ってきたというのだから、正解だったのだろう。


忙しかったと言うが、見るからに頑丈そうな彼が調子を崩すほどだ、なにか街でトラブルでもあったのだろうか……だが、それらしいことはペチカや少し増えた客からも聞いてはいない……

――それを、聞いてどうする。

ビクトルはもう終わったと言ったのだし、大丈夫だろう。


「変なところで遠慮するんですねビクトルさん」

「うん?」

「店で休憩していってくださいって言ったら、ためらって。ナンリさんのこと知ってるんでしたっけ。でもそんな来客とか気にするとは思わなかったです」

「……そうだな」


やはり、ペチカも気になったようだ。

曖昧に頷くと、ナンリが笑っている。


「……なにか分かったのか?」

「いや、視点の違いだろう」


ふっととぼけた顔になり、残っていた自分の分のクッキーをペチカに渡す。


「ペチカにはそのうちわかるだろうが、マキアは……まあ、気長にいくのもいいが、どうしたものかな」

「えっクッキーもだめでした?」

「ああ、ありがたいが、酪……動物のものが混じっているからな。気持ちだけいただく」

「はー大変ですねえ」

「うむ、それはな。慣れるまでは相当に」


ふう、とため息をつくナンリが、修行の一環で食べるものを区別しているのは知っているが、本当に大変そうだ。

食にこだわらないマキアにできない修行だろう。こだわらないということは、なにがなにか区別がつかないということだ。


「では、食べ物ついでに食事の用意を始める」

「分かった……ああ、ありがとう」

「なんの」


ナンリは修行といって、身の回りのことを全部してしまう。カップを回収し、料理ついでに洗ってくれるというのだから頭が下がる。


「じゃあ、売上計算してますね、またなにかあったら声かけてくださいー」


ペチカは奥の部屋で帳簿を触るらしい。

……肩身が狭い。自分は店主だったはずだが。

仕方なく、ナンリに渡された東洋の本の翻訳の続きをする。修行だ、これもきっと。


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