第32話 大きく羽ばたくための準備

 その後、泣き止んだアイリスはリシャールと合流し、クリスティーヌと一緒に大公のタウンハウスに帰ってきた。


 午後の訓練をしているというティファに合流するために、修練所に向かうと、ティファが空を飛んでいた。


 空に浮いている虹色の輪を、ティファは何の苦も無く潜り抜け、障害物が無くなった途端、パッと大きく羽を広げた。


「わぁぁぁぁ」

 ティファの白い体は明るい日差しを受けて、まるで銀色の光を帯びているみたいにキラキラと輝く。


 周りにいるのが黒い竜だから、真っ白なその姿は空に溶け込んでいきそうに見えた。


(ティファは本当にきれいになった……)

 きっとあんな風に美しくなったティファを見たら、侯爵はもっとアイリスとティファを手に入れようと必死になるだろう。


(でもきっと、ティファが輝けば輝くほど、ジョシュアは気に食わなくてひどいことをしようとする)


 アイリスは自分がもっともっと、強くならないとと心に誓った。


【ティファ、ただいま】

 心話で呼びかけると、ティファは答えるより先に、軌道を変えて一目散にアイリスのもとに急降下する。


「ティファ、会えてうれしいよ」

 いろいろなことがあったから、ティファのひょうひょうとした竜らしい顔を見ていると、なんだか心からほっこりする。


「アイリスって本当にボクのことが好きすぎるよね」

 まんざらでもない顔でティファはアイリスの手に顔を擦り付けた。


 そうされるだけでティファさえいれば、世界に怖いものが何もないような気持ちになるのが不思議だ。


 アイリスは大きくなっているティファの首に手をまわしてぎゅっと抱き着いた。


「うーん、そろそろいいかしらね」

 するとアイリスの横で、ティファの空を飛ぶ様子を観察していたクリスティーヌは頷く。


「そろそろ?」

「うん。ティファ、かなり飛べるようになったから、一度アイリスを乗せて飛んでみたらいいと思うよ」


 大公夫妻の三男グラードが母親に向かって進言する。


「アイリスに乗って、飛ぶ?」

 一瞬言われていることが理解できなくてオウム返しにしてしまった。すると修練場に付き合って来ていたリシャールが、アイリスの肩をポンとたたく。


「一緒に空を飛ぶんだ」

 空を見たリシャールの視線を追って、アイリスも空を見上げる。


「ティファと?」

「そう、ボクは人と共に生まれた竜だからね!」

 即座に反応があって、アイリスはそっと以前よりずっと大きくなったその背中を触れる。


「まずは飛んでみようよ。今なら俺たちもいるし、母上もいるし、安心して飛べるよ。父上にもらったハンカチ、持っている?」

 その言葉に、以前大公に肌身離さず持っておくように言われたハンカチを取り出す。


「そう、それをティファの背中の……このあたりにおいて」

 グラードが指示したところにハンカチを置くと、それは変形して馬の鞍のように変わる。


 けれど触った感じはふわふわしていて全然硬そうには見えず、これなら背中に乗ってもティファもいたくないかもしれない。


「安心して。ティファはかなり飛ぶのが上手くなったから」

「上手くなったっていうか、ボク天才的に上手いと思う」


 相変わらず自信満々のティファになんだか笑いがこみあげてくる。


(今日は緊張したり、怒ったり、泣いたり、笑ったり……忙しい日だな)

 だけどいつも通りのティファを見ていたら、安心する。


「ティファ、さっきみたいに無茶な飛び方はするなよ」

 そう声をかけてくるのはグラードの竜ブランだ。


「安心して。何かあっても、空中で拾ってあげるよ」

 リシャールの言葉に、物静かなリシャールの金の竜アベルが頷いている。


「もう! あのね、ボクがアイリスを落とすわけなんてないでしょ!」

 怒ったような口調なのに、ティファの言葉が嬉しそうに跳ねている。きっと、アイリスを乗せて飛びたくて仕方ないのだ。


「わかった。もちろんティファを信じるよ」

 くすりと笑ってアイリスは以前教わったようにすでに屈んで乗りやすいように姿勢を整えてくれていたティファによじ登る。


「なんか……不思議な感じ」

 ティファの背中の上に乗ると、アイリスが今まで見ていた高さと違う世界が存在していた。修練場を囲っている木々は少しだけ近く、そして見上げるような高さから少しだけ小さく見える。


「昔っから、ボクがアイリスの肩に乗るのが定番だったのにねぇ」

 最近はティファが大きくなってしまったから、小型化していても小型の猛禽類ぐらいの大きさがある。


 変体後のティファは体を小さくしても、実年齢よりずっと体の小さなアイリスの肩に乗るのには重たすぎるのだ。


「ボクはアイリスと一緒に飛べるのが嬉しいんだ。だって……ずっと夢だったから」


 ずっと地下に閉じ込められていたアイリスと違って、ティファはあちこちに出かけることができていた。だから魂の盟友とともに、空に舞い上がる竜を何度も見たことがあったのかもしれない。


(もしかしたら、そんな姿を見て、ずっと一緒に空を飛びたいって思っていてくれたのかも)


 「私も、ティファと一緒に空を飛べるのが嬉しい」

 ティファの夢が今叶えられるのだ。


「じゃあ、ゆっくりと飛んでみて。アイリスは空を飛ぶのには慣れていないから、ゆ~っくりとね」


 クリスティーナの元にはいつの間に青竜のジーンが来ていて、ティファを誘導するように羽を動かしてふわりと飛び立つ。


「アイリス、行くよ!」

 大公からもらった特別なハンカチは、アイリスとティファの体を磁石で引っ張り合うように繋いでくれている。だからティファが飛び上がった時、恐ろしいというより、興奮と期待で心臓がドクンと跳ね上がった。


「わああぁぁ」

 アイリスの羽ばたきで、グンッと空に近づいたような気がする。あっという間に下にいる人たちが小さくなっていく。


「すごい、全部が小さく見える」

「すごいでしょう。それに空もピカピカに輝いていて、たぶんあの雲にだって乗れるんだ」

 アイリスたちの前に見える、もこもこした雲をティファは視線で指し示す。


「今度は曲がるわよ」

 にこにこと笑っているアイリスを見て、ほっとしたようにクリスティーヌが声をかけて、大きく左に曲がる。


 アイリスは生まれて初めて見た光景に、胸のドキドキが止まらなくて、叫び出したいような気持ちになっていた。


「気持ちいい~~~~~」

 大きな声を上げると、口に風が飛び込んでくる。


 この間は大公と一緒に乗せてもらったけれど、一人でティファに乗るのは最高だ。


 思わず上げた歓声に、ティファが体を震わせて笑う。


「そうでしょ、空は最高なんだ!」

 ティファとケタケタと笑っていると、クリスティーヌを乗せたジーンが近づいてくる。


「さすが竜の娘ね。最初から空を飛ぶのが全然怖くないのね」

 クリスティーヌの問いに、アイリスは顔じゅうに笑みを浮かべて答える。


「もちろん。ティファと一緒に空を飛べるなんて最高!」

 アイリスの言葉にティファから速度を上げて空中を滑空する。急に高度が上がって胃のせりあがる感覚に、うっと口元を押さえる。


「ちょ、まだそれは無理よ。もう少しゆったり飛んで!」

 後ろからついてきている、グラードとリシャールは全くといったあきれ顔で肩をすくめていたのだった。


***


 王都の下町。昼下がりなのに人気すらあまりない寂れた道を一人歩く男がいた。


 かろうじて看板はあるものの、ペンキはかすれていて、よく見なければ何を売っているのかすらわからない武具屋。


 黒竜大公オーランドは、その店の建付けの悪い扉を強引に開けて入る。


「久しいな、黒竜大公」

 彼が尋ねてくることを予測していたのだろう、頬に傷のある武骨で不愛想な主人は、大公が店に入った途端、声をかけてきた。


「ああ、久しいな。ガリウス」

 いつも通りの店主の様子にオーランドも挨拶を返す。


 勧められてもいないのに、勝手にカウンターの中に入り、置いてあったこれまた建付けの悪い椅子にドカリと腰かけた。


「今日は……アルフォルト侯爵家の内情について調べろという依頼だろう?」

 男は瓶詰めになったぬるいエールを一本、そのまま渡してくる。自分も一本それを取ると、慣れた手つきで瓶の上をナイフで切り落とす。


 オーランドも同じように瓶の口を開けると、じゅわっと泡があふれてくる。それを口で受け止めると、口髭のように白い泡がついた。


「のどが渇いていたんだ、悪くないな」

 彼の言葉に店の男は肩をすくめて流す。


「事情は説明しなくてもいいな。侯爵邸でのアイリスの養育状況に関しての詳細な情報と、証人を手に入れたい。今から二週間でだ」

 彼の言葉に、ガリウスは余計なことは何も聞かずに、うっそりと頷いた。




 


 

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