6話―連鎖



 オフィスに沈黙が落ちていた。

 誰もが監視映像に映った異常を否定しようとしたが、その惨状はスクリーンの中で確かに刻まれていた。


 ――眼球の裏側。

 結衣は心臓の奥に冷たいものを感じた。

 姉の死と同じだ。佐伯の死も。

 次は、自分。


 「もう一度……確認しよう」

 上司が乾いた声で言い、再生ボタンを押した。


 しかし今度は、映像に異変があった。

 さっきまで映っていたはずの佐伯の死が――映っていない。

 そこにはただ、廊下を歩く彼の姿があり、ふつうに角を曲がって消えていくだけだった。


 「な……なんだ? おい、今の……」

 「嘘だろ、さっき確かに……」


 部屋中がざわめきに包まれる。

 結衣は自分の目を疑った。

 つい先ほどまで確かに見ていた。

 眼球の裏側から突き破るようにして現れた、あの手。

 破裂した眼球、飛び散った液体。


 ――まさか。

 あれは、自分にだけ見えていた?


 そう気づいたとき、背筋を冷たい手で撫でられたような感覚が走った。


 「ちょっと待ってください……」

 結衣は立ち上がりかけた。

 だがそのとき、別の部署の女性社員が悲鳴をあげた。


 「目が……目があああッ!!」


 皆の視線が一斉に彼女に向かう。

 彼女はデスクに突っ伏し、両手で顔を覆っていた。

 指の隙間から、どろりとした半透明の液体が滴り落ちている。

 その液体は、眼球の奥から漏れ出た硝子体そのものだった。


 「救急車を!!」

 上司が叫ぶが、誰も動けなかった。


 女性社員の顔がゆっくりと上がる。

 眼球はもうそこにはなかった。

 眼窩の奥で、ぐるりと裏返った白目だけが蠢いていた。

 まるで内側に引き込まれ、反転したかのように。


 「ひッ……!」

 結衣は後ずさった。

 だが、地獄はまだ始まったばかりだった。


 別のデスクから、男性社員の呻き声が響いた。

 彼は自分の眼を掻きむしっている。

 爪が眼球を切り裂き、血が飛び散る。

 そして――爪の下から、小さな黒い指がにゅるりと伸び出した。


 「出るな……出るな……!」

 男は泣き叫びながら頭を壁に打ちつける。

 眼球の奥から突き出る指は、内側から外へ、まるで胎児が産まれようとするかのように動いていた。

 次の瞬間――ぱん、と音を立てて眼球が破裂した。


 飛び散った破片と液体が隣の社員の頬を濡らす。

 その社員は絶叫し、立ち上がって走り出したが、数歩ののちに床に崩れ落ちた。

 彼の瞳孔はすでに裏返り、視線はどこにも合っていなかった。


 オフィスは地獄絵図となった。

 逃げ惑う者。

 眼を抉ろうとする者。

 笑い声を上げながら壁に顔を打ちつける者。


 「やめて……やめてえええッ!!」

 結衣は耳を塞ぎ、床にしゃがみ込んだ。

 だが閉じた視界の裏で、何かが蠢いている。


 ――見えている。

 眼球の裏側から、誰かがこちらを覗いている。


 「やめろ……やめろおおおッ!!!」


 結衣は絶叫して目を開けた。

 視界いっぱいに広がるのは、オフィスの仲間たちの惨状。

 その全員が――眼球を失い、眼窩の奥で“裏返った白”を見せていた。


 立っているのは結衣ひとり。

 静まり返ったオフィスに、血と体液の臭いが充満する。


 そのとき、不意に電話が鳴った。


 ビリリリリリリリ……。


 あまりに場違いな音に、結衣の心臓が止まりそうになった。

 震える手で受話器を取ると、聞き覚えのある声がした。


 「……結衣?」


 ――姉の声だった。


 「見えたでしょう? あの向こう側が。

  でも、まだ完全には引きずり込まれていない。

  あなたの眼は……まだ“入口”だから」


 「……お姉ちゃん……?」

 結衣の声は震えていた。


 「鏡を覗いちゃだめ。

  あの子たちは、裏側から鏡を通って、目の奥に入り込む。

  だから……潰すの。

  自分の眼を」


 プツリと電話が切れた。


 受話器を握る結衣の指先から汗が滴る。

 息ができない。

 姉が言った言葉――眼を潰す。


 結衣は震える足で立ち上がった。

 周囲には同僚たちの死体。

 潰れた眼、裏返った白目、散乱する血と破片。


 そして、壁に掛けられた大きな鏡。

 そこに映る自分の顔が、結衣を睨み返していた。


 ――その顔の眼の奥で、

 黒い影がにゅるりと動いた。

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