眼球の裏側

然々

序章:違和感

その違和感に気づいたのは、通勤電車の中だった。

 三浦結衣はスマートフォンの画面に目を落としていた。メールのチェック。上司からの修正依頼。ため息が喉の奥で膨らむ。いつもの朝、いつもの疲労。だが、画面の隅にふっと黒い影が差し込んだ。


 瞬きをした。

 それでも黒いものは残っている。視界の端に、黒い“何か”がこびりついたように。


 電車が揺れた。吊革を握り直しながら、結衣は視線を上げた。

 向かいの座席に並んで座る会社員たち。新聞を読む者、眠る者、無表情で車窓を眺める者。どれも見慣れた光景のはずだった。だが、その中にひとつ、奇妙な存在が混じっていた。


 ――見ている。


 視線が合った。

 黒い影のような人影が、乗客の隙間に立っていた。輪郭はぼやけ、顔は真っ黒に塗り潰されたようだ。ただ、眼だけがあった。穴のようにぽっかりと開いた、底知れぬ暗闇の眼孔。

 その眼が、まっすぐ結衣の目を覗き返していた。


 心臓が跳ねる。瞬きをした瞬間、影は消えていた。

 ただの見間違い。寝不足か、仕事のストレスのせいか。自分にそう言い聞かせても、汗が背筋を伝うのを止められなかった。


 その夜、帰宅途中。交差点で人だかりができていた。赤色灯が点滅し、警察官が交通を規制している。

 「人が……跳ねられたらしい」

 囁き声が耳に入る。結衣は立ち止まった。

 アスファルトの上に横たわる若い女性。動かない身体。血の匂い。救急隊員の声。


 結衣は息を呑んだ。

 女性の顔が、こちらを向いていた。

 見開かれた両目。その眼球は充血し、まるで破裂寸前のように赤く膨れ上がっていた。


 ――昼間、電車で見た影を思い出す。

 胸の奥が冷えた。


 「……覗かれている」


 口の中で誰ともなく呟いたその言葉に、自分自身が最も震え上がっていた。


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