バイバイ、私の未来― 花びらの向こうへ
Spica|言葉を編む
第1話: 未来の断片
遠くで、草刈り機のエンジンが途切れ途切れに唸っている。
焦げた草の匂いと、ジリジリと照りつける午後の陽射しが、団地のコンクリートを白く焼きつけていた。
地面に描いたチョークの絵は、汗ばむ手のひらでにじみ始めている。
「こっち、見て見て!」
妹の
彼女の描く絵は、時々、妙に大人びている。
いや、正確には“未来っぽい”のだ。
団地の中庭。
錆びかけた鉄棒の近くに、未来なんて言葉は似合わない。
それでも、彼女の絵には、見たことのない紫がかった空や、境界のぼやけた建物のような影が、にじむように混じっていた。
「お姉ちゃん、これ見て」
にやっと笑って、遥子は新しい絵を差し出した。
そこには、私がいた。
笑っていた。ルンバを抱えて喜んでいた。
背景には、どこかで見たテレビ番組の景品パネルのようなものが描かれていた。
「これ、なあに?」と訊くと、遥子は得意気に言った。
「今度、くじで当たるやつだよ。たぶん、お姉ちゃんが当てる」
「ありがとう。変なの(笑)。でも、そうなればいいな」
信じたわけじゃない。
けれど、未来がほんの少しだけ、手に届くものに思えて、私はその絵を部屋の壁に貼った。
翌日、本当にルンバが当たった。
団地の自治会でやっていた夏祭りのくじ引きで。
──未来は、ただの偶然かもしれない。
でも、「もしも」を思わせる力があった。
母は、もういない。
かすれた咳の音と、薬の匂いだけを残して、遥子がまだ幼かった頃に逝ってしまった。
それ以来、父と三人で暮らしてきた。
父は無口で、口下手で、でも誠実な人だ。
あの日も、変わらず静かな午後だった。
遥子が描いていたのは、一匹の黒い犬。
「名前は、アンコだよ」
絵には、黒い犬と、それを撫でる遥子。
そして、その横に、スカートを履いた私が描かれていた。
「これ、私?」
「うん。アンコが、お姉ちゃんの足にすりすりしてるとこ」
その絵を見て、私は思った。
この未来なら、ちょっと好きだな、と。
“そうなったらいいな”って、久しぶりに思えた。
数日後、団地の裏で、黒い目を怯えたように光らせながら震えていた犬を見つけた。
遥子は毎日その犬を見に行き、「アンコ」と勝手に名づけた。
その後、団地近くの電柱には、ペット捜索の貼り紙が出された。
——————————————————
犬種:黒柴犬 性別:メス 名前:アンコ
——————————————————
──その名を呼ぶ声が、確かに現実に重なった。
遥子の絵は、未来の断片。
でも、全部じゃない。
描かれなかった部分もある。
いや、もしかすると──描けなかったのかもしれない。
その時のことを、私はまだ知らなかった。
あれが、始まりだった。
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