振りかぶって投げた。

オーミヤビ

 お前さえいなければ、俺はあのマウンドに立っていた。


 背番号が配られた日。名簿の紙は湿った指に少しだけ貼りつき、黒いインクがじわりと滲んで見えた。背番号1の横に書かれた名前は、俺のものじゃなかった。お前の名前だった。監督は淡々とした声で「役割が違う」と告げ、俺の胸に投げ込まれたのは、控えの重さと、まだ形の定まらない悔しさだった。

 俺の思考はいつでも「お前さえ」に引っ張られる。キャッチャーのサインを見る前に、まず「お前さえ」を見てしまう。もし、お前さえいなければ。もし、俺だけのチームだったなら。そんな仮定は、グラブの中の汗よりもしつこく、指の腹に残り続ける。


 お前さえいなければ、俺はフォームを変えずに済んだ。

 二年のはじめ、監督は俺に言った。


「お前は相性で使う。右の強打者に小さく落とせ。テイクバックを短く、左足の着地は半歩前。腕の出どころを隠せ」


 それはお前を先発の柱に据えるための調整でもあった。お前のストレートとフォークで試合を組み立てるなら、俺はその裏側でタイミングをずらして、一つだけ音の違う鐘を鳴らす役目になる。


 分かっていた。分かっていても、古い自分を捨てるのは苦くて、夜の自室でひとり、鏡に投球動作を映しては肩を落とした。グラウンドの土は、いつも俺の変化の跡を無言で吸い取っていく。

 「割を食う」という言葉の正確な温度を、俺はそこで知った。お前が中心に据えられ、戦術の歯車が回る。俺は歯車の隙間で、噛み合わせを微調整する人間になる。反復の末に覚えたチェンジアップの握りは、掌の内側に小さな魚の骨のように刺さって痛かった。


 お前さえいなければ、俺は黒板の一番上に名前を書かれていた。

 期末試験の返却日は、いつも重かった。教室のざわめきが遠くなり、担任のチョークが黒板を叩く音だけが鋭く響く。


 理数の点で俺は悪くない位置にいるはずなのに、上には必ずお前がいた。難問に星をつけて、解説の余白に小さな図を添える、あの几帳面さ。俺は投手ノートと同じくらい、丁寧に試験勉強をしていたが、順位は変わらなかった。

 先生はお前を褒め、俺の肩も叩いた。「お前も偉いな」と。

 俺はいつでも、「も」の存在だった。


 お前さえいなければ、俺は彼女の隣に立っていた。

 教室の奥、窓際の机に差し込む午後の光は、いつでも彼女を照らし出す。彼女がつけていた細いヘアピンは、晴れた日の空みたいな色で、カバーの取れかけた文庫を大切そうに撫でていた。

 俺はペンを指で転がしながら、タイミングを測って声をかけようとして、やめる日々だった。そのとはきいつも、廊下からお前の声が聞こえ、彼女は席を立つのだ。扉の向こうで二人の笑い声が重なり、俺の机の上でペンは止まる。

 廊下の途中で、お前が彼女にノートを渡すのを見た。彼女は嬉しそうに頷き、お前は何でもないことのように手を振った。俺はその仕草を目に焼き付けたまま、空欄の続く参考書を閉じた。

「話しかければいいのに」と、廊下ですれ違いざまにお前が笑って言った。お前はいつもそう簡単に言う。そしてその簡単さが、俺にはいつも眩しすぎた。眩しさは時に、目の前の段差を見えなくする。お前に言われるとなんだかできるような気がして、俺はそれで何度か足をくじいた。




 お前さえいなければ、俺はもっと早く満足していた。

 満足は甘い。部室の古いソファの座り心地に似ている。沈み込むと、立ち上がりづらくなる。お前がいると、その座り心地にいつも針が混じった。無自覚に刺さるちくりとした痛みが、俺をゆっくり立たせる。朝練の前、まだ白むだけの校庭に誰よりも早く出ていって、土の凹凸を足裏で確かめる癖も、その針のせいで身についた。お前はよく笑っていた。だが誰もいないスタンドで、ひとりゴムチューブを引いている背中を、俺は何度か見ている。光はいつだって影と並んで、同じ速度で移動するのだと、そのときようやく知った。


 お前さえいなければ、俺は二番手の色を知らないままだった。

 二番手の色は地味だ。ひとことでいえば灰色。でも、それは濡れると深い藍色に変わる。ブルペンで肩を作るたび、俺はその色の中に自分の輪郭を見つけるようになった。試合の流れを測る癖、味方の息の上がり具合を遠くから察する癖、相手キャッチャーの配球の癖、お前の背中が守ってきたスコアボードのゼロを、別角度から一緒に守る術を覚えた。

 監督は時折、俺に静かな期待を向けてきた。「お前が準備しているとチームが落ち着く」と。表彰状にもならない言葉だが、俺の中でだけは煌めいた。表に立つ誰かの影で呼吸を整える役割が、この世のどこかに確かにある。そう知ったとき、二番手という言葉は少しだけ誇りの匂いを帯びた。


 お前さえいなければ、俺は「負け方」を知らないままだった。

 負け方を知らない勝ち方は、薄い。勝ちを重ねたとき、皮がめくれて内側が露出する瞬間がある。そこに風が当たると、想像以上に痛い。


 俺は一度、お前の後で登って炎上した。失点の数字が、電光掲示板の中で赤く増える。ベンチに戻ると、息が浅くなり、腕が自分のものじゃないみたいに震えた。お前は黙って水を差し出し、俺が受け取るまで目を逸らさなかった。言葉がないから、かえって重かった。

 次の試合の前日、お前は俺のノートを開いて、「ここ、捨ててもいい」とだけ言った。勇気は派手じゃなくていい。必要なとき、必要な量だけ、そこにあればいい。あのときの一滴は、まだ俺のことを潤し続けている。


 お前さえいなければ、俺はここまで投げ続けていない。

 雨の日の体育館、ボールの乾いた音に混じるシューズのきしみ、土曜日の午後にだけ差し込む光の角度。反復の景色を俺は何枚も持っている。お前はその全部に写っていた。笑っている日も、眉間に皺を寄せている日も、ただ黙ってグラブをはめ直している日も。競争は消耗だと誰かは言ったけれど、俺にとっては補給でもあった。お前の存在が、俺のタンクに満ちたり空いたりする水位を、ちょうどいいところで揺らしてくれた。


 お前さえいなければ、俺は「この三年間」を好きになれなかった。

 遠征のバスで、窓に額をつけるとガラスがひんやりして、眠気がすぐにやってくる。起きると、いつも隣でお前が英単語帳を開いていた。俺がメットの紐をいじっていると、お前は何も言わずにグラブの紐を結び直してくれた。失言のあとの気まずさも、試合前の沈黙も、帰り道のくだらない話も、全部が投球のどこかに紛れ込んでいる。背中合わせで重ねた時間は、思っているより温度が合う。俺はそれを、野球が教えてくれたのだとようやく分かった。



 そして今、俺はようやく分かる。お前がいなければ、俺はここにいない。

 お前が俺たちをここに連れてきた。

 お前が俺をまで連れていってくれた。

 三年間、俺はお前の背中に負け続け、何度も怒り、何度も嫉妬した。

 悔しさの棘は鈍い。けれど棘のある歩幅でしか見えない景色が、世の中には確かにある。お前と並走した三年間は、そういう景色の連続だった。

 俺の中の「お前さえ」は、いつのまにか「お前だから」に置き換わっていた。


「お前がいたから」


 それは、たぶん俺が一番口に出しにくい言葉だ。だが今なら言える。小さく、でもはっきりと。


 声がする。俺の苗字を呼ぶ声だ。ベンチの奥で、スパイクの紐が指に絡まる。呼吸の速さが一段だけ上がり、胸の内側を叩く鼓動の音が自分のものじゃないみたいに響く。グラブの革は乾いていて、指の腹に吸い付く。ベルトを直し、帽子のつばを一度だけ押し下げる。お前と視線が合う。お前は汗に濡れた額を袖で拭い、短く笑った。


「行けるか」


 お前は少し泣きそうな声をしていた。

 俺はお前の肩を軽く叩いて、言った。


「行く」


 土の匂いが濃い。踏みしめるたび、芝の端で小さな水滴が跳ねる。視界の奥で照明が白く滲むのを見ながら、ゆっくりと歩く。手のひらの中心に、これまでの三年間がゆっくり収束してくる。マウンドに向かう坂を登ると、風が一度だけ方向を変えた。お前の声が、背中に届く。


「最後、持ってけ」


 俺は振り返らない。答えはもう決まっている。


 実況が言った。


「夏の県大会決勝、九回裏、二点差一死満塁、勝負どころです。マウンドには背番号一〇、三年生の右腕」


「──振りかぶって、投げました」

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振りかぶって投げた。 オーミヤビ @O-miyabi

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