Episode.26   王都に忍び寄る影

◆ 胸を刺す沈黙 ◆


アウルディーン=ネクサスの最深部、古代図書施設。

荘厳な静寂に包まれたその空間は、時折光の書が翻る音と、壁一面に浮かび上がる幻影のような記録が淡く脈動する音だけが響いていた。


天井を覆う無数の光の書は、まるで星座のように並び、古代文明の叡智を絶え間なく放ち続けている。

それは本来ならネルフィにとって至福の時間であり、夢中で解析し、図面を書き連ねる居場所だった。

しかし今夜の彼女は机に突っ伏し、ほとんど動かない。


机の端に置かれた水晶通信器。

いつもなら淡く光を放ち、あの賑やかで少しせっかちな声を響かせるはずのそれは、数日間、冷たく沈黙していた。


「……リュシェル」

声に出した瞬間、胸の奥が痛んだ。

「なんで……何も言ってくれないの……?」


小さな独白は石造りの壁に反射し、倍音を伴って返ってくる。

だがその回響は、彼女の孤独をさらに強調するだけだった。


ネルフィの脳裏には、無邪気な笑顔のリュシェルの姿が浮かぶ。

――「今日ね、侍女の新しい靴が大破したのよ! もう笑うしかなかったわ!」

――「父上に叱られて泣いたから、ネルフィ慰めて! 今すぐ!」


時にどうでもよすぎる愚痴、時に可愛げのある秘密。

そんな日常の通信は、ネルフィにとって当たり前で、何よりも心を温めてくれるものだった。


しかし――それが、完全に途絶えている。

数日間の沈黙は、ネルフィにとって戦場で矢の雨に晒されるよりも重苦しい。


「……ただ忙しいだけ。そうよ、王女なんだからきっと仕事が山積みで……」

自分にそう言い聞かせるように口にしても、胸の奥に広がるざわつきは収まらない。

むしろ無理に否定する言葉が、棘となって突き刺さる。


彼女はぎゅっと両手を握り込み、指先は白くなるほど力を込めた。

――嫌な予感が、どうしても拭えなかった。


帝国。

闇ギルド。

幾度となく自分や仲間、街を脅かしてきた影たち。


そして、彼らが次に狙うとすれば。

その標的は間違いなく、エリムハイド王国。

そして、その中心にいる――親友リュシェル。


「まさか……」

ネルフィの声は震え、かすかにかき消された。

胸に広がる焦燥と恐怖は、古代図書施設の冷たい空気をさらに重くしていく。


――この沈黙の先に待つものが何かを、彼女はまだ知ることができなかった。




◆◇◆◇


◆ ギルドマスターの通信 ◆


「ネルフィ!」


突然、古代図書施設の石壁に埋め込まれた魔導スクリーンが閃光を放った。

白い光が室内を満たし、耳障りなノイズが空気を裂く。

普段なら落ち着いた研究空間が、一瞬で緊張に包まれた。


ネルフィは机に突っ伏したまま顔を上げ、反射的に通信器へと駆け寄る。

浮かび上がったのは、険しい表情を浮かべたミッドウェル支部ギルドマスター――グラウスの姿だった。

額には深い皺が刻まれ、片腕に巻かれた包帯が痛々しく光に照らされている。


「ギルドマスター!? どうしたの……こんな時間に!」

ネルフィの声は震えていた。胸の奥のざわつきが現実になったのではないか――そんな予感が心臓を締め付けていた。


グラウスは短く息を吐き、重々しい声を響かせる。

「王都アルセリオとの回線が……すべて途絶えた」


ネルフィの呼吸が止まった。

一瞬、頭の中が真っ白になる。

「……え……なんで……そんな……」


「偶然ではない」

ギルドマスターの瞳は鋭く光り、言葉を選ぶように一語ずつ吐き出す。

「我々の情報網によれば、帝国の工作部隊と闇ギルドの影が同時に動き出している。王都全域の通信網が封鎖されているのは、その前兆だ。……これは単なる小競り合いではない。大規模な策だ」


ネルフィの喉がひゅっと鳴る。

「帝国……と、闇ギルド……!」

胸の奥で小さな灯が爆ぜる。怒りと恐怖が入り混じった感情が、今にも涙となって零れそうだった。


グラウスは続けた。

「お前の親友――リュシェル王女の身も、もはや安全ではない。奴らは王族を人質に取り、王国を混乱へと叩き落とすつもりだろう。……下手をすれば、この街で終わったはずの戦が、王国全体を巻き込む火種となる」


ネルフィの胸に、リュシェルの姿が浮かぶ。

――明るく笑いながら「ネルフィ、聞いて!」と駆け寄ってくる顔。

――時に泣きながら「もうやだ!」と愚痴を零す顔。

――そして、「ネルフィがいるから平気」と微笑む顔。


その笑顔が、もしも絶望に歪む未来を迎えるのだとしたら――。

ネルフィの小さな身体の奥から、怒りにも似た熱が溢れ上がる。

拳を固く握り、椅子を蹴って立ち上がった。


「……そんなの、絶対にさせない!」

声が石造りの空間に響き渡る。

「帝国だろうと闇ギルドだろうと、リュシェルを傷つけるなんて……絶対に許さない! ――私たちが、王都へ行きます!」


スクリーン越しのグラウスは、その幼い少女の強さを見つめ、しばし沈黙した。

だがやがて、その険しい表情にかすかな安堵と決意の色を滲ませ、深く頷いた。


「……そう言うと思った。だが覚悟しておけ、ネルフィ。帝国はお前を“脅威”と見なしている。牙を剥くことは避けられん。奴らはお前を潰すためなら、どんな手でも使う」


ネルフィは目を逸らさずに頷いた。

「それでも……行く。私は発明家で、ハンターで……リュシェルの友達だから」


通信が途絶え、魔導スクリーンが暗転する。

再び古代図書施設に静寂が訪れた。

しかしその空気は、もはや先ほどの重苦しい沈黙ではない。


胸を刺していた不安は、今や鋭い決意へと変わっていた。

ネルフィの小さな背中は震えていたが、その瞳は確かに前を向いていた。


――嵐は近い。

そして彼女は、その嵐の中心へと飛び込む覚悟を固めたのだった。




◆◇◆◇


◆ ゼルダンの報告 ◆


「……っは、はぁ……はぁ……!」


静まり返った古代図書施設に、乱れた息が荒々しく響いた。

ネルフィが驚いて振り向くと、そこには外套を土埃で汚し、全身を汗に濡らしたゼルダンが駆け込んでくる姿があった。

額からは玉のような汗が滴り落ち、肩で息をしながら壁に手をつく。普段の飄々とした様子は消え、目だけが異様なほど鋭く光っていた。


「ゼルダン!? どうしたの、その格好……! 一体何が……」


問いかけるネルフィの声を遮るように、ゼルダンは腰の水筒を引き抜き、半分以上を一気に喉へ流し込んだ。

水滴が顎から飛び散り、荒い息が再びこぼれる。

それでも彼は呼吸を整える暇すら惜しみ、焦燥を帯びた声で叫んだ。


「……街の裏ルートを追ってたんだ。帝国の密偵と闇ギルドの動き――全部、足取りを洗った!」

拳を固く握りしめ、机へと叩きつける。

「間違いねぇ……! エリムハイド王国に仕掛けてるのは、帝国と闇ギルドの連中だ! 王都の通信が封じられたのも奴らの仕業に決まってる!」


ネルフィの胸がぎゅっと締め付けられる。

「やっぱり……!」

心臓が嫌な音を立てるように早鐘を打ち、リュシェルの笑顔が脳裏をよぎる。

あの無邪気で元気な幼馴染みが、もし帝国や闇ギルドの手に落ちているとしたら――。


ゼルダンは息を荒くしたまま、ネルフィの目を真っ直ぐ射抜いた。

その指が勢いよく突き出される。


「時間はねぇ! 今すぐ動かなきゃ、王都は……いや、リュシェルは確実に危ない!」


ネルフィの喉が熱を帯びる。

胸を突き刺すような焦燥。背筋を這い上がる恐怖。

だがその奥から、熱い決意がせり上がるようにこみ上げてきた。


「……行く」

小さく呟いた声は、すぐに力強く変わる。

「帝国だろうと闇ギルドだろうと関係ない。絶対に助けに行く! リュシェルを守るために!」


幼い肩を震わせながらも、ネルフィは誰よりも強く頷いた。

その瞳は、もう迷いではなく鋼の意志で輝いていた。


ゼルダンはその顔を見て、荒い呼吸の合間にかすかに笑みを浮かべる。

「……そうこなくちゃな、発明屋。あんたならそう言うと思ってた」


二人の視線が交わった瞬間、空気は一変する。

もはや不安ではなく、戦いの前に訪れる覚悟の静けさが、古代図書施設を満たしていた。


――リュシェルを救うために。

――王都に迫る闇を切り裂くために。


ネルフィたちの新たな戦いが、ここに動き出そうとしていた。




◆◇◆◇


◆ 工房での別れ ◆


翌朝――。

アウルディーン工房2号店のホールは、いつになく張り詰めた空気に包まれていた。

開店準備でにぎやかに笑い声が響くはずの場所に、今は仲間たちの足音と緊張した息遣いだけが満ちている。


長机の上には、急ごしらえの作戦図と補給品のリスト。壁際には旅支度を整えた鞄や武具がずらりと並んでいた。

ネルフィはその中央に立ち、ぎゅっと拳を握りしめながら仲間たちの顔を順に見渡した。


「……帝国と闇ギルドが、エリムハイド王国を狙ってる」

その一言で、場の空気がさらに重くなる。

ネルフィの声はいつになく硬く、けれど決意に満ちていた。


「王都アルセリオとの通信は完全に途絶えてる。ギルドマスターも、ゼルダンも同じ情報を掴んだ……。つまり――リュシェルが危ない」


幼馴染みであり、親友でもある王女の名前を出した途端、ネルフィの胸が強く疼いた。

しかし顔を上げ、まっすぐに仲間へ向き直る。


「だから私たちは、王都へ行く。……必ず助けるために」


ホールのあちこちから小さなどよめきが漏れる。

不安、驚き、そして覚悟。

仲間たちの心が一斉に揺れ動いたのが伝わってくる。


ネルフィはすぐに言葉を続けた。

「でも、この街も大切。この工房を空けたら、帝国や闇ギルドが何を仕掛けてくるかわからない。だから――ここはみんなに任せる」


ネルフィは真っ直ぐに指名する。

「リー、ユリウス、セレナ、グラリス。お願い。ここはあなたたちに託す」


名前を呼ばれた四人は、それぞれ違う表情で前へ出た。


リー・ファランは腰に手を当て、ぱんっと拳を打ち合わせる。

「ふん! 任せときなさい。ここにいる限り、不届き者がのさばることは絶対に許さない。私が全部ぶっ飛ばしてやるわ!」

その頼もしさに、他のメンバーから「おおっ」と小さな歓声が漏れる。


続いてユリウスが愛用の銃をくるりと回し、片目をウィンクさせて笑った。

「俺が残れば、街は笑顔で溢れるってもんさ。ま、帝国だろうが闇ギルドだろうが、相手してやるよ。……ただし、俺のギャラは高いぜ?」

その軽口に、一瞬だけ張り詰めていた空気が和らぎ、数人が苦笑をこぼす。


セレナは腕を組み、真っ直ぐな眼差しでネルフィを見据えた。

「安心して。あなたが王都で戦っている間、ここは私たちが守るわ。……だから心配せずに行きなさい」

その落ち着き払った声に、場全体が静かに引き締まる。


最後に、グラリスが一歩前へ出た。

昨日まで新入りとして緊張していた彼女の瞳は、今は強く輝いていた。

「……はい。私もこの工房の一員です。ネルフィさんが信じてくれるなら、全力で支えます。必ず、この街を守ります!」


ネルフィはその言葉を聞き、胸の奥がじんと熱くなった。

まだ知り合って日が浅いはずのグラリスが、もう「仲間」としてここまで覚悟を示してくれている。

「……ありがとう」


ネルフィは深く頭を下げた。

「必ず帰ってくる。その時はまた、ここで一緒に笑おう」


レオンが横に立ち、短く「任せた」と仲間へ告げる。

榊やリル、ラムも無言で頷き、視線で仲間への感謝を伝えていた。


その場にいた全員が、互いの決意を確かめ合うように頷き合う。

戦場に赴く者も、街を守る者も。

それぞれの立場で、同じ未来を見据えていた。


――こうして、アウルディーン工房は二つに分かれる決断をした。

王都へ向かう者と、この街を守る者。

だが心はひとつ。「必ず帰る」「必ず守る」という約束で固く結ばれていた。


ネルフィの小さな背に、仲間たちの信頼が託される。

そしてその重みこそが、彼女をさらに強く突き動かしていた。




◆◇◆◇


◆ 転移の門 ◆


アウルディーン=ネクサスの艦橋は、今までにないほどの緊張感に包まれていた。

天井から垂れる光の結晶が淡く脈動し、艦内を照らすたびに、仲間たちの顔には影と光が交互に走る。


榊は腕を組み、冷静な眼差しで計器の動きを確認していた。

リルとラムは並んで通信端末の前に座り、王都の微かな反応を探ろうと必死に指を走らせている。

ゼルダンは荒い息を整えながらも剣を抱え、どこか苛立つように足を鳴らしていた。

「……帝国と闇ギルド、両方が絡んでいる以上、甘い期待はできん」

短い言葉に、皆の背筋がさらに伸びる。


リュミエールとリュシアンは魔導図面を展開し、転移時の安全ルートを見極めていた。

双子受付嬢は互いに視線を交わし、怯えを抑えるように強く頷き合う。

マルタはその頭を優しく撫でて、「大丈夫よ」と囁いた。

アカとシロは無表情のまま武装を点検し、アウルディーナメカたちが重い機械音を響かせて並んでいる。


さらに艦の外郭では、獅王アイアン・レギオス幻軍エコーズ・アーマメント氷炎セラフ・ディフェンサーといった巨兵が鎮座し、まるで出撃の時を今か今かと待ち構えているかのようだった。


ネルフィは艦橋中央の制御盤の前に立ち、小さな手を光の盤に置いた。

「転移ゲート――エリムハイド王国王都、座標固定!」


瞬間、艦内全体に青白い光が走り抜け、床下から低く重い轟音が鳴り響く。

空間そのものがきしむような振動。

艦橋の窓の向こう、闇の中に裂け目が生じ、やがて天を覆うほどの巨大な光の門が開かれていく。


「……っ!」

双子受付嬢が思わず声を上げ、リルが息を呑む。

だがネルフィは一歩も退かず、瞳をまっすぐに光へ向けた。


その隣に、剣を抜いたレオンが立つ。

光の刃が彼の黒衣を照らし、その横顔を鋭く浮かび上がらせた。

「……行こう。お前の大切な人を、必ず守るために」


その言葉に、ネルフィの胸が強く震える。

彼女は胸元に手を当て、力強く頷いた。

「リュシェル……待ってて。絶対に助けに行くから!」


彼女の決意に応じるように、アウルディーン=ネクサス全体がうなりを上げる。

魔導回路が一斉に点灯し、艦の巨体が光の奔流に包まれた。


視界を覆うのは、無限の蒼い渦。

時空の狭間を貫くように、艦は加速し、轟音とともにその身を光の門へと投じていく。


――忍び寄る影。

――救いを求める声。

――帝国と闇ギルドの陰謀。


そして何よりも――「親友を守りたい」という小さな少女の強い願い。


それが今、世界を揺るがす旅立ちを突き動かしていた。

アウルディーン=ネクサスはまばゆい閃光に飲み込まれ、王都へと跳躍する。


新たな戦いの幕が、音もなく開かれようとしていた。

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