髪を切った日

@ame1me

髪を切った日


 美容師に髪を洗ってもらうと、

どうしてこんなに頭が軽くなるのだろう。洗いたての髪をさらさらと揺らしながらゆったりと歩く。午後の柔らかな日差しを受けて、きらきらと光るポプラ並木の新緑が、さらさらと風に揺れる。



 少しだけ、髪を切った。


ーー宮下。


記憶の中の彼女が笑う。

笑うと少し尖った八重歯が顔を出すのが、とてもかわいい。


ーー宮下の髪、綺麗ね。


彼女はよく、俺の髪を褒めた。

没個性的な顔に、サラサラしすぎな黒い髪。おまけに仕事ぶりも没個性的な俺を褒めてくれるのは、彼女くらいだった。



 少しだけ、髪を切った。

もちろん髪型は一ミリも変えていない。変えるつもりもない。


ーー結婚するの、宮下。


幸せそうに、彼女は笑った。


ーー‥‥おめでとう。


どうやって返事をしたのか、どんな顔をしたのか、全然思い出せない。



 美しくレンガで舗装された道を、ぼんやりと眺めながら、できるだけゆったりと歩く。


彼女とは会社の同期だった。彼女と過ごした時間は、少なくとも、一年前に中途入社した彼よりは断然長い。


ーー宮下にも来てほしいの。


白く長い薬指には、婚約指輪がきらきらと輝いている。

完璧なバランスで微笑む彼女。さらりとのぞく八重歯。

彼女が安心しきった特別な笑顔を向けるのは、きっと彼だけなのだろう。


ーー勿論。


俺はいつものように微笑んで頷く。


ーー勿論、出席するに決まってるじゃないか。



 少しだけ、髪を切った。

でも彼女が褒めてくれた髪型から、少しでも変えることなんてできない。彼女は髪を切ったことに気がつくだろうか。


ーー結婚式でしたら、少しスタイリング致しますか?


気を利かせた美容師が、まったくもってわかっていないことを言った。俺はこのままの髪型がいいのだ。


睨みつけながら結構ですと突っぱねる俺を、美容師は何か気味の悪いものを見るような目で見ていた。



 ーー宮下がいて良かった。


記憶の中の彼女が笑う。

今から彼女は他の男と結婚する。

どんなにゆったり歩いても、やがて式場に到着してしまう。


ざわざわと、強い風にポプラの葉がちぎれんばかりに揺れる。

たまらなくなって、膝から崩れ落ちる。目を閉じても、ざわざわと強い風の音はうるさいくらいに耳に刺さる。


いまさら気づいても、遅い。

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