追憶浦島太郎 3
「それでは浦島さん、どうかお元気で」
「お前もな。もう悪ガキにいじめられるんじゃないぞ!」
海辺で亀と別れた浦島は、自分の家に向かって歩き出します。三年も家を空けてしまいました。母は自分のことを、もう死んだものと思っているでしょうか。ちゃんと、全て説明しよう。竜宮城での、何物にも代えがたい不思議な生活のこと。
「おかしい、俺の家はここのはずでは……」
ところが、おかしなことが起こりました。自分の家が見つからないのです。それだけではありません。町並みが、浦島が知っているものとはまったく違うのです。たった三年で、ここまで様変わりするはずがない。
「もし、突然すみません。この辺りに浦島という家があるはずなのですが、ご存知でしょうか」
「浦島……? もしかしたら、私の先祖の苗字かもしれません」
「なんだって!」
偶然そばを通りがかった青年に尋ねると、思わぬ答えが返ってきました。
「はい、確か三百年くらい前にいた浦島太郎という男が、私の……どういう関係になるのだろう。とにかく、遥か祖先にそういった名前の男がいたはずです」
「三百年!」
浦島はぞっとしました。竜宮城での一年は、地上での百年だったのです。
「あ、あ……」
「大丈夫ですか? 体調が優れないのですか?」
こんなのは、何かの間違いだ。悪い夢だ。現実から逃れるように、浦島は青い紐のかかった重箱を開きました。竜宮城での思い出にひたることで、受け入れがたい現実から一時的に目を逸らそうとしたのです。
「えっ」
驚く青年の目の前で、浦島は箱から出てきた煙を浴びました。浦島はその煙の中に、竜宮城を見ました。タイヒラメ酒飯乙姫。楽しかったあの日々。海の底を散歩しながら過ごした何気ない一日。乙姫に愛の告白をしようか何度も悩んで、結局やめたこと。子供にいじめられていたことを何度も蒸し返してからかって、亀に怒られたこと。ずっとここにいたい、と思ったこと。
煙が晴れると、浦島は一筋の涙を流していました。青年が、浦島の顔を不安そうにのぞき込んでいます。
「あのう、もし、大丈夫ですか……?」
「……」
箱の中に煙は残っていません。おみやげとして持たされた思い出も、浦島は使い切ってしまったのでした。
「その、余計なお世話ですけど、今の煙は浴びていいものだったんですか? どうも、先程より顔色が優れないように見えますが……」
「……!」
「もしもし、聞こえていますか?」
浦島は、もう一つの箱に手を伸ばしました。乙姫から決して開けてはならないと言われていた箱。その赤い紐をほどきます。もしかしたら、同じように竜宮城の景色が見られるかもしれない。約束を破る罪悪感は、少しもありませんでした。
箱の中から煙がたちのぼり、そして……。
――浦島は、海岸を歩いていました。
「えっ」
海岸から港町へ向かって歩いて、いつもと同じ角で曲がって、自分の家にたどり着きました。そう、自分の家。何も変わってなどいない港町に、当然なくなってなどいないその家は確かにありました。
「おや、今日は少し遅かったんじゃないかい?」
家に入ると母の声がして、「ああ……」と曖昧な返事が無意識にこぼれました。まるで何事もなかったみたいな、普通の地上での生活。まるで、竜宮城でのできごとが全て夢だったかのような……。
実際に、夢だったのかもしれない。自分は海岸で昼寝でもしていて、長い長い夢を見ていた。それなら、人に化ける亀や海の底の城などという荒唐無稽な話も、三百年後の世界に放り出される理不尽も、全て現実の話ではなかったということになります。
「なに突っ立ってるんだい? ごはんできてるよ」
「あ、ああ、ありがとう……」
いろんなことを考えていると頭が破裂しそうでその場を動くどころではありませんでしたが、体は母の声に引き寄せられるようにして家の奥に向かっていきます。あれは全て、夢だったのだ。浦島は、ひとまずそう思うことにしたのでした。
本当は今見ているこっちの世界が夢で、寝て起きたらまた三百年後のあの世界にいるかもしれない。そう思いましたが、翌朝起きた浦島の体は眠り慣れた布団の中にあって、いつも通り海岸で釣りをして、いつも通り帰ってきました。そんな生活を続けていたある日、釣りをしている時に海岸で美しい女と出会いました。どこか乙姫様の面影のある、美しい女でした。
それからその女と毎日顔を合わせ、愛をはぐくみ、そうしている間に竜宮城での日々のことは完全に夢として、浦島の頭から消え去ってゆきました。やがてその女と結婚し、子供をもうけました。海岸で見知らぬ子供を見かけてもいじめるような男にはなるな、と厳しく言ってその子を育て、やがて彼は浦島と同じように立派な漁師となりました。息子が初めて取ってきた魚を焼いて、自分と妻にふるまってくれた時の感動といったら! 本当に、この世のどんなごちそうよりもうまいと思いました。もちろん、あのおかしな夢で見た竜宮城での食事よりも、ずっと。
そうして息子の背中が大きくなるにつれ妻の体は小さく、弱々しくなっていって、ついに布団の中で眠るように息を引き取りました。すると浦島は一気に消沈してしまって、それまでどこも体に悪いところなんてなかったのに食事も喉を通らないようになってしまって、最後には、昔の習慣を繰り返すように釣竿を持って沖へ出て、海に呑まれて帰らぬ人となりました。
暗く冷たい海の中、ゆっくりと奥深くに沈んでいくさなか、浦島は思いました。
ああ、竜宮城へ、帰らなくてはな……。
―――
――
―
青年はたいそう驚きました。赤い紐のかかった重箱を開けた男が、煙を浴びて一瞬で老人になったのですから。
めでたし、めでたし……?
【短編集】愛に気づくと切ない童話【新感覚意味怖】 白眼野 りゅー @pato-nickname
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