第45話 神域の森と、二つの沈黙


 伊勢神宮、外宮(げくう)。その鳥居をくぐった瞬間、二人がいた名古屋の喧騒が、まるで嘘のように遠ざかった。ひんやりとした、清浄な空気が肌を撫で、玉砂利を踏む音だけが、辺りに静かに響き渡る。

 「…空気が、違う」

 シオンが、珍しく素直な感想を漏らした。彼女の瞳が、いつもより少しだけ、大きく見開かれている。

 樹齢何百年にもなるであろう、巨大な木々が、空を覆うようにそびえ立っている。それは、東照宮の、人の意志によって配置された荘厳さとは違う、自然そのものが持つ、圧倒的な生命力と、時間の重みを感じさせた。

 「日光の神様は、派手な鎧を着て、自分を主張してたけど」とシオンが言った。「ここの神様は、森の中に溶け込んで、気配を消してる感じ」

 その表現は、彼が感じていたことを、的確に言い表していた。ここは、人が神のために作った場所というより、神が住まう森に、人が畏敬の念をもって、お邪魔させてもらっている、というような場所だった。


 二人は、言葉少なに行列に加わり、正宮(しょうぐう)へと向かう。古い社殿のすぐ隣に、全く同じ形の、真新しい社殿が建っている。二十年に一度、社殿を新しく建て替える、式年遷宮の名残だ。

 「面白いね」とシオンが呟いた。

 「形あるものは、いつか朽ちる。だから、全く同じものを隣に作り続けることで、『形』じゃなくて、『在り方』そのものを、永遠に繋いでいこうとしてる。仏壇職人の話と、繋がったな」

 彼の旅の話を、彼女は全て覚えていた。そして、新しい景色を見るたびに、その記憶と結びつけ、独自の解釈を加えていく。彼女というフィルターを通して見る世界は、彼が一人で見ていた時よりも、何倍も立体的で、奥深いものに感じられた。


 正宮の前では、個人的な願い事ではなく、日々の感謝を捧げるのが習わしだとされている。二人は、他の参拝客に倣い、白い御幌(みとばり)が揺れる向こうにある、見えない神の気配に向かって、静かに頭を下げた。

 その時、彼は、自分が何かを願うのではなく、ただ、今、ここにいるという事実を、報告しているような感覚に陥った。北海道から始まった旅、出会った人々、そして、今、隣にシオンがいること。その全てを、この大いなる何かに、ただ、受け止めてもらっているような。

 隣で同じように頭を下げているシオンは、何を思っているのだろうか。世界の終わりを眺めていた彼女は、この神域の森の中心で、何を感じているのか。彼は、それを知りたいと思ったが、尋ねることはしなかった。

 それは、彼女だけの沈黙であり、彼が侵してはならない、聖域のようなものだと感じたからだ。


 外宮を出て、内宮(ないくう)へと向かうバスの中で、シオンは珍しく、ずっと黙り込んでいた。ただ、窓の外を流れる景色を、じっと見つめている。

 宇治橋を渡り、内宮の神域へと入る。五十鈴川の清流で手を清め、再び、玉砂利の参道を進む。外宮よりもさらに深く、広大な森。その空気に触れているだけで、心が浄化されていくようだ。

 正宮での参拝を終え、二人は、荒祭宮(あらまつりのみや)へと続く、石段の前に立っていた。

 「なあ」と、シオンがようやく口を開いた。

 「あんたは、ここで、何を『撮った』?」

 その問いに、彼は、すぐには答えられなかった。

 「…何も。撮れなかった。ここは、カメラを向けるような場所じゃない」

 「だよな」

 シオンは、そう言って、フッと笑った。

 「ここは、感じる場所だ。撮るんじゃなくて、撮られる側になる場所。この森の空気に、自分の中の余計なものを、全部、吸い取ってもらう感じ」

 彼女の言葉に、彼は頷いた。日光で感じた「沈黙を守るための言葉」とも違う、ここは、言葉そのものが生まれる以前の、根源的な場所に、限りなく近い。

 二つのカメラは、ここでは、ただの二つの魂となって、巨大な自然の気配の前に、静かに佇んでいた。互いの沈黙の意味を、言葉にしなくても理解し合えるような、穏やかな時間が、そこには流れていた。

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