第43話 重なる影、見つめる先


 地図から消されかけた街を歩いた夜、彼はシオンの過去について、何も聞かなかった。彼女もまた、彼の過去を詮索しようとはしなかった。二人の間には、言葉にしなくても互いの孤独の輪郭を認め合うような、奇妙な共感が生まれていた。彼らは、互いにとって、都合のいい逃げ場所ではなく、ただ、ありのままの存在を許容し合える、稀有な相手だった。


 その日以来、彼は昼間は一人で街を歩き、心というフィルムに景色を焼き付け、夜になると、あのライブハウスへ通うようになった。シオンは、いつもそこにいた。二人は、カウンターの隅で、他愛のない話や、世界の成り立ちについて、哲学的な問答のような会話を交わした。

 「人間って、矛盾してるよね」

 ある夜、シオンがグラスを回しながら言った。

 「永遠を信じたいくせに、新しいものにすぐ飛びつく。誰かと繋がりたいくせに、一人になることを恐れてる。あんたの書く物語の運転手も、きっと、そういう矛盾を抱えてるんでしょ」

 「…そうかもしれない」

 「矛盾を描けばいいんだよ。綺麗な理屈でまとめようとするから、嘘っぽくなる。人間は、もっとぐちゃぐちゃで、わけがわかんない生き物なんだから」

 シオンの言葉は、いつも彼の創作の核心を突いてくる。彼女は、彼の物語にとって、最初の、そして最高の読者であり、批評家だった。


 彼は、ネットカフェで書き溜めた、新しい物語の断片を、プリントアウトして彼女に見せた。名古屋の街角で見た、名もなき人々のスケッチだ。

 シオンは、黙ってそれに目を通していたが、ふと、一枚の紙の上で指を止めた。

 「…この人、知ってる」

 それは、彼が熱田神宮の森の奥で見かけた、スーツ姿の若い男性を描写した部分だった。

 「私の、弟」

 シオンは、静かに言った。

 「あいつ、真面目だから。大きな契約の前とか、うまくいかないことがあると、あそこに行くんだ。願掛け、っていうより、自分の心を落ち着かせるために。…あんた、ちゃんと見てるんだね。人の、見えない部分まで」

 その時、彼は初めて、シオンのダウナーな仮面の下にある、家族への、不器用で深い愛情に触れた気がした。彼女もまた、この灰色の街に、確かな根を下ろして生きているのだ。


 その夜、店の外で別れる時、シオンがふと、彼に尋ねた。

 「…あんた、この後、どこへ行くの」

 「西へ。伊勢の方へ向かおうかと」

 日本の神社の本宗、伊勢神宮。日光とはまた違う、日本の信仰の原点を見てみたいと、彼は考えていた。

 シオンは、しばらく黙って、夜空を見上げていた。そして、決心したように、彼に向き直った。

 「…私も、連れてって」

 その言葉は、あまりに唐突で、彼は一瞬、意味が理解できなかった。

 「え…?」

 「世界の終わりを眺めるのも、飽きた。あんたのカメラのレンズ越しに、世界がどう見えるのか、見てみたくなった。…ダメ?」

 上目遣いで、少しだけ不安そうに尋ねる彼女の表情は、彼が初めて見る、素顔のシオンだった。

 彼に、断る理由など、あるはずもなかった。

 「…ダメなわけ、ないだろ」

 彼の旅は、その瞬間、全く新しい章へと突入した。一人で始めた、自分を探すための旅。それは今、二人で、世界の本当の姿を探すための旅へと、その意味を変えようとしていた。

 二つの孤独な影が、名古屋の夜の中で、初めて、重なり合った。

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